人生で一番怖かったこと
東横沿線の菊名に住んでたとき、改札左の飲み屋で午前二時くらいまで女三人で飲んでいた。
駅から歩いて二十分ほどの場所に自宅があるのは自分だけで、他の二人はタクシーで帰ることになった。だから一緒に駅の階段を上がり、反対側のタクシー乗り場まで見送りに行った。
その駅は歩道橋のような構造で、タクシーの停まる車道側へと階段を降りていく途中、小柄な男が向こうから登ってきた。他に人影もなく、互いにすれ違っただけだった。
友人たちをタクシーに乗せてから、自分はまた歩いて帰るつもりで来た階段を戻ろうとした。すると、階段のてっぺんに、さっきの男が立っていて、じっとこちらを見下ろしていた。
「やばいな……」
とっさに、道を間違えたふりをして階段を降り直した。タクシーで帰ることにしたのだ。
けれども、ここは深夜の菊名駅前。あの一台のタクシーが出て行った後、他には一台もいない。
ただ待っているのも不安だったので、近くにあった松屋に逃げ込もうと小走りになった。が、何気なく後ろを振り返ると、その男がすぐ後ろまで迫ってきていた。
逃げようとすれば逆に刺激してしまいそうで、早足で距離を取ろうとした矢先、彼に腕をつかまれた。
「ねえねえ、遊びに行こうよ」
若々しい声だったが、見た目は三十前後。ぞっとしながら、腕をそっとふりほどき、「もう帰るところだから」と答えた。
だが男は目を合わせてこず、ずっと私の頭の上あたりを見ていて、「聞こえなかった?遊びに行こうって言ったんだよ」と、無表情に言った。
怖くて声も出せず、首を振ると、彼は舌打ちをして、「これだけ、これだけ見てよ」と言って、ポケットから携帯を取り出し、私の目の前に突き出してきた。
「いや、見たくない、そんなの……」と答えながら、松屋へ逃げ込もうとしたが、彼はなおもしつこく、
「聞こえてるでしょ?見ればいいだけなんだよ、これを、見ようよ、見てよ、見て、見て、み、み、みみみ」
と、まるで壊れたテープのように繰り返していた。彼の視線はずっと私の頭上に向けられたまま、目は合わない。
叫びたいのに、その瞬間、彼が何をするかが怖くて声が出せなかった。言うとおりに携帯を見れば、この状況が終わるのでは――そう思い始めたときだった。
「どうされましたか?」
タクシー乗り場から声がかかった。運転手さんだった。
その声に、男は肩を大きく震わせ、驚いたように携帯を取り落とした。
落ちた携帯の画面をふと見てしまった。そこには、メールの作成画面でこう書かれていた。
「上を見て。あれなぁに?」
男は混乱したように「かー、かかかかか」とうわ言のようにつぶやきながら携帯を拾い、逃げ出そうとした。だが、運転手さんが駆け寄り、腕をつかんで制止した。
「ちょっと待て、今警察に電話するから!」
すると男は運転手さんを激しく蹴り、ズボンのだぶついた後ろポケットから、何かをもたつきながら取り出そうとしていた。折りたたみナイフだった。
「おまえも……あなたも、上を、上を見ればいい!」
叫びながら、ナイフをやっと取り出して両手で広げ、こちらにじりじりと歩いてきた。
頭が真っ白になり、体が固まって動けなかった。運転手さんの「やめなさい!」という声にも、男は構わず進みながら、
「くそぉ、くそぉ……どうして上を見ないんだよ、上見ろよ、うえっ、うえっみっみ」
ナイフをポケットにしまおうとして手間取りながら、最後にはそのまま駅の階段をゆっくり上っていった。
警察は呼んだが、その後どうなったのかはわからない――
[出典:http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1125151026]