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短編 r+ ヒトコワ・ほんとに怖いのは人間

視線の高さ rw+8,985-0211

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あの夜のことは、今でも思い出そうとすると、視線の位置だけがずれて再生される。

東横線の菊名に住んでいた頃、改札を出てすぐ左にある飲み屋で、女三人で終電後まで飲んでいた。

時計を見たら午前二時を少し回っていた。店を出たとき、駅前は静まり返っていて、終電がとっくに終わっていることを空気で思い出した。

三人のうち、自宅まで歩く必要があるのは私だけだった。他の二人はタクシーで帰るというので、一緒に駅構内を抜け、反対側のタクシー乗り場まで見送りに行った。

菊名駅は、線路をまたぐ歩道橋のような構造をしている。改札を出て階段を上り、反対側へ降りる。その途中、階段の中腹ですれ違った男がいた。

小柄で、黒っぽい服を着ていた。酔っている様子でもなく、足取りも普通だった。ただ、こちらを見るでもなく、まっすぐ前を向いたまま、静かに階段を上ってきた。すれ違った瞬間、妙に近かった気がしたが、その程度のことだと思っていた。

友人二人をタクシーに乗せ、手を振って見送った。エンジン音が遠ざかり、駅前に残ったのは私と、街灯の白い光だけだった。

歩いて帰るつもりで、さっき降りてきた階段を上り返そうとした。そのとき、視線を感じて足が止まった。

階段のてっぺんに、さっきの男が立っていた。手すりの影に溶けるように、じっとこちらを見下ろしている。

やばい、と頭の奥で言葉だけが浮かんだ。

反射的に、道を間違えたふりをした。くるりと向きを変え、また階段を降りた。タクシーで帰るしかない、そう自分に言い聞かせた。

だが、深夜の菊名駅前にタクシーは一台もいなかった。さっきの一台が最後だったのだと、ようやく気づいた。

その場で立ち尽くすのが怖くて、近くにあった松屋に入ろうと決めた。明かりのある場所にいけば、少しは落ち着ける。そう思い、小走りになった。

背中に、気配が張り付いてきた。

何気なく振り返った瞬間、心臓が跳ねた。男が、すぐ後ろにいた。さっきよりも距離が近い。足音は聞こえなかった。

逃げたら追ってくる気がした。だから走らず、早足で距離を取ろうとした。その矢先、腕をつかまれた。

細い指だった。力は強くないのに、妙に離れなかった。

「ねえねえ、遊びに行こうよ」

声は若かった。明るくも暗くもない、作った感じのない声だった。見た目は三十前後に見えた。

ぞっとしながら、腕をそっと振りほどき、「もう帰るところだから」と言った。自分の声が震えているのがわかった。

男は私と目を合わせなかった。ずっと、私の頭の上あたりを見ている。

「聞こえなかった? 遊びに行こうって言ったんだよ」

表情はなく、口だけが動いていた。

首を横に振ると、男は舌打ちをした。そして、急に言い方を変えた。

「これだけ、これだけ見てよ」

ポケットから携帯電話を取り出し、私の顔の前に突き出してきた。

「いや、見たくない」

そう言いながら、松屋の方へ体を向けた。だが男は一歩も引かず、同じ距離を保ったまま付いてくる。

「聞こえてるでしょ? 見ればいいだけなんだよ」

声が少しずつ早くなる。

「これを、見ようよ」

携帯の画面は暗く、何も映っていないように見えた。

「見て」

言葉が短くなった。

「見て、見て」

息が荒くなる。

「み、み、み」

壊れたテープのように、音だけが繰り返された。

男の視線は、終始私の頭の上に向けられていた。一度も目が合わない。そのことが、何より怖かった。

叫びたかった。でも、声を出した瞬間、何をされるかわからなかった。言うとおりに携帯を見れば、この状況が終わるのではないか。そんな考えが、じわじわと頭を占め始めた。

そのときだった。

「どうされましたか?」

タクシー乗り場の方から声がした。

運転手だった。

男はびくりと肩を震わせ、携帯を取り落とした。地面に当たった拍子に、画面が光った。

一瞬だけ、見えてしまった。

メールの作成画面だった。途中まで打たれた文章が、そこにあった。

「上を見て。あれなぁに」

男は混乱したように、「か、かかか」と意味のない音を漏らしながら携帯を拾い上げ、後ずさった。

運転手が近づき、男の腕をつかんだ。

「ちょっと待て。今、警察に電話するから」

その瞬間、男は運転手を激しく蹴った。よろめいた運転手の隙を突き、ズボンのだぶついた後ろポケットを探る。

何かを取り出そうとしている。手元がもたつく。

折りたたみナイフだった。

「おまえも……あなたも」

声が裏返る。

「上を見ればいい!」

ナイフを両手で開き、こちらに向かってじりじりと歩いてくる。

頭が真っ白になった。体が言うことをきかない。

「くそ、くそ……」

男は独り言のように続けた。

「どうして上を見ないんだよ」

一歩、また一歩。

「上見ろよ」

ナイフをしまおうとして、また手間取る。

「うえ、うえっ、み」

最後まで言い切らないまま、男は踵を返した。そして、駅の階段をゆっくりと上っていった。

その背中を、誰も追わなかった。

警察は呼ばれたが、結局、男がどうなったのかはわからない。

あの夜から、私は駅の階段を上るとき、無意識に天井を避けて歩くようになった。

上を見ないように。

見るべきでないものが、まだそこにある気がしてならないからだ。

[出典:http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1125151026]

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