これは、ある地方の消防団に所属していた元団員から聞いた話だ。
大学を卒業して地元に戻った彼は、地元の習慣で消防団に加入することになった。田舎の消防団では火災だけでなく、行方不明者の捜索なども重要な任務に含まれている。奇妙な体験はその活動中に起こった。
その日は朝早くから始まった。捜索対象は、鯉沼トヨさんという七十代の女性だった。彼女は前日の朝、家を出たまま戻ってこなかったという。鯉沼さんの家族は「買い物に出たのだろう」と最初は気に留めなかった。しかし、昼になっても夜になっても戻らず、家に残された朝食の炊飯器や温かいままだった味噌汁が、家族を不安にさせた。翌朝、警察と消防団が総動員され、一斉捜索が始まった。
トヨさんは足腰が弱く、普段から押し車型の歩行器を使って歩いていた。長い距離を移動するのは難しいはずだったが、家に歩行器はなく、外出用の少しかしこまった靴が一足なくなっていた。服装も普段通りのシャツとズボンだったらしい。家族や近隣住民の話を基に捜索範囲を絞り込み、地元消防団百二十名が総力を挙げて山中や海辺まで探した。
それでも、トヨさんの痕跡はどこにもなかった。地元のタクシー会社や交通機関に確認しても、彼女らしき目撃情報は一切なし。事故の可能性も考えられたが、周囲には何の痕跡も残されていなかった。捜索は二日間にわたって行われたが、結果は空振りだった。
月日は流れ、その事件も次第に人々の記憶から薄れていった。
商店の掲示板や電柱に貼られていたトヨさんの顔写真入りの捜索願は日焼けして色あせ、家族が手書きで書いた「おばあちゃんを探しています」という張り紙も文字がかすんで判読しにくくなっていた。人々は諦めたように日常に戻っていった。
ところが、事件から一年ほど経ったある日、警察に奇妙な通報が相次いだ。
「背格好や服装、押し車を押している姿が鯉沼トヨさんにそっくりだ」という目撃情報が、立て続けに寄せられたのだ。しかし、目撃された場所はどれもバラバラで、家から数百メートルの場所から十数キロも離れた町外れまで点在していた。
警察は情報に基づいて再度捜索を行ったが、やはりトヨさんを見つけることはできなかった。ただ一つ奇妙な共通点があった。それは、目撃情報の近くには必ず家族が貼った手書きの張り紙が掲示されていることだった。
更に不可解だったのは、その張り紙に追加された「一言」だった。
手書きの張り紙の一番下の余白部分に、鉛筆で細い文字が書き足されていたのだ。
「おります」
それも、どの張り紙にも同じ筆跡で、同じ位置に書かれていたという。しかも、その張り紙が貼られていた掲示板の中には、ガラスケースに鍵がかけられているものもあった。鍵を管理している公民館の職員が開けた形跡はないと言い切った。
地域の人々は次第にその謎めいた書き込みに不気味さを感じるようになった。「おります」の文字が追加された張り紙の近くでトヨさんの目撃談が増えていく一方、本人を直接見たという確かな証拠はないままだった。家族も警察も、次第に捜索を諦めていった。
目撃情報もいつしかぱたりと途絶え、張り紙が剥がされる頃には、誰も話題にしなくなった。だが、元消防団員である彼は、今でも不思議に思うという。ガラスケースの鍵がかかった掲示板に、どうやって「おります」と書かれたのか。そして、その文字の意味するものは一体何だったのか。
「たぶん、鯉沼さんが亡くなった後もどこかで家族を見守っているという、彼女のメッセージなんじゃないかと勝手に思っています」と彼は最後にそう語った。
だが、その言葉には少しの安堵と、それ以上の不安が含まれているように思えた。
解説・考察
「おります」の書き手——消えた歩行器と現れた言葉の論理
最初に消えたのは証拠ではなく、“整合性”だった。
机上の数字と現場の足取りが噛み合わない——この小さなズレこそが、物語の入口となる。
一年の沈黙を破って現れたのは、人影ではなく、鉛筆で足されたたった三文字。「おります」。その素朴さが、いちばん不気味だ。
背景と手がかり
- 確定している事実
- 捜索対象は七十代女性・鯉沼トヨさん。前日の朝に外出して以降、帰宅せず。
- 家には炊飯器の朝食・温かい味噌汁が残り、外出用の靴が一足消えていた。
- 普段は押し車型の歩行器を使用。家に歩行器は無かった。
- 警察・消防団による二日間の広域捜索でも手掛かり無し。交通機関・タクシーの照会も空振り。
- 約一年後、複数地点で「そっくりな人物」目撃が相次ぐ。
- 目撃地点の近くには、家族の手書き張り紙が掲示されており、その下部余白に鉛筆で「おります」と追記。筆跡は同一。
- 一部の掲示板はガラスケース+施錠。管理者は「開錠の記録なし」と証言。
- 未解明の要素
- 失踪当日の移動経路、歩行器の所在。
- 「おります」の書き手と目的。
- 施錠掲示板に追記できた手段。
- 目撃情報と追記の因果関係(どちらが先か/相互作用か)。
仮説の登場人物(または可能性)
仮説A:祈り書きの遍歴者
- 動機:家族への慰め、地域への呼びかけ、あるいは“見守り”という物語を保つための善意の介入。宗教的・民俗的ニュアンスを帯びた「おります」という敬体が鍵。
- 機会:日中に人目を避けつつ掲示を巡回。施錠ケースは入替時や掲示更新の隙、担当者交代の瞬間、地域行事の準備時など短い開放時間を捉えた可能性。あるいは合鍵所持者(複製・旧職員)か、掲示物差し替えの手伝い経験者。
- 手口適合:鉛筆は目立ちすぎない・擦過痕が少ない・携帯しやすい。三文字で筆致を揃えやすい。掲示の下辺に反復的に同位置で書くのは“署名”的儀式性を感じさせる。
- 癖・小道具:細軸のHB〜B鉛筆、携帯消しゴム。古い手帳の余白に練習された三文字の反復。
- 評価(総合):可能性中〜高。動機は説明力があり、物理的障壁も「運用上の隙」で越えられる範囲。
仮説B:鍵穴の幾何学者(物理トリック派)
- 動機:悪戯・挑発・注目獲得。あるいは「事件を解け」と焚きつける自己演出。
- 機会:施錠ケースに微小クリアランス(ガラスと台紙の隙間、下辺の通風孔)や紙の端露出があれば、細軸延長具(針金+鉛筆芯)で三文字の筆記は理論上可能。
ただし、同位置・同筆圧で安定して書くのは難度が高い。 - 手口適合:均一筆跡・位置の再現性には事前ジグ(L字治具)か掲示ケースの型番知識が要る。実行者は器用で、工作好き。
- 癖・小道具:模型工具、クリップ改造の延長ペン、メジャー。夜明けの路地を好むタイプ。
- 評価(総合):可能性中。技術的実現性はあるが、面倒さに対するリターンが弱い。執拗さが必要。
仮説C:集団の影絵師(心理効果説)
- 動機:誰か特定の書き手を想定せず、自己成就的な合図として働いたと捉える。
「おります」の三文字がプライミング(先行刺激)となり、人々の誤認・選択的注意を増幅した。 - 機会:張り紙の近接効果により、記憶中のトヨさん像と近くの高齢女性の特徴一致が過大評価される。
「押し車」「背格好」「服装」は多くの高齢者に共通する記述で、報告は曖昧一致の集積かもしれない。 - 手口適合:目撃の多発→検証で不在、という特徴的パターンと整合。書き手の正体は問わず、反復掲示と言葉の力で十分。
- 癖・小道具:言葉ひとつ。社会はそれに残りを足す。
- 評価(総合):可能性高(目撃の分布と“確証なき増殖”を説明)。
暫定結論
- もっとも説明力のある筋道:
作業仮説=A(善意の“祈り書き”)×C(プライミング効果)の合成モデル。
一人(または少数)が、家族を気遣う意図で「おります」と追記した。語感は所在+安堵を与える日本語で、高齢者像と親和的。これが地域の注意を一点に集め、“似ている誰か”の目撃が増殖した。
施錠掲示板については、運用の隙(更新時開放/臨時掲示の差替え/臨時鍵貸与)で十分説明可能。物理トリック(B)は補助線として残す。
確信度レンジ:0.55〜0.7 - 追加で必要な情報や検証方法
- 筆跡比較(張り紙間・地域文書・掲示担当者のメモなど)。鉛筆芯の硬度・筆圧痕(紙繊維の押し跡)も比較。
- 掲示ケース運用ログ(開閉日時・担当者)、地域行事日の開放タイミングの洗い出し。
- 目撃通報のタイムスタンプと「おります」追記の発生日を時系列で重ね、因果方向を検証。
- 追記位置の高さと文字角度から、書き手の身長レンジや利き手の推定。
- 当時のコンビニ・役場周辺のカメラの死角情報(保存があれば)。同一人物の巡回痕跡の有無。
読者への問い
「『おります』の三文字は、慰めの灯か、からかいの影か、あるいは群衆心理の鏡か。
あなたなら、どの仮説に一票を投じるだろうか?」
免責:ここでの推理は仮説に過ぎず、実在個人を断定するものではありません。