ヒッピーに憧れてた。
きっかけは、ビート・ジェネレーションの詩集と、場末の中古レコード店で見つけたジャニス・ジョプリン。あの時代の連中が見てた幻覚や、行き場のない魂の震えに、なぜか強く惹かれた。
そんな衝動に突き動かされて、後先考えずに沖縄行きのフェリーに飛び乗った。着いたのは梅雨の終わりの那覇港。潮と油の匂いがこもった空気を吸い込みながら、無計画な放浪が始まった。
当時の沖縄は、米軍の払い下げ品があふれていた。ベトナム戦争が泥沼化していた頃で、町中に軍装の残骸が転がっていた。オリーブドラブのアーミーパンツ、擦り切れたコンバットブーツ、缶詰めのラベルが英語のままの軍用食……それらを格安で手に入れ、俺は気分だけ米兵になって、町を練り歩いた。
そんなある日だ。国際通りの端っこ、アスファルトの隅に敷かれたゴザの上で、奇妙な男に声をかけられた。
「ヘイ、ブラザー。いいモノあるぜ。見ていけよ」
黒人の血が混じってるような顔立ちの、日本語まじりの英語を話す男だった。年は三十代半ば、陽に焼けた肌に、コイルのような黒髪。目がギラついていて、でもどこか憎めない。話すうちに、あっという間に打ち解けた。
名前はトム、と名乗った。米軍基地で働いていた母と、黒人兵との間に生まれたらしい。基地の外で、よくある話だと笑った。俺がヒッピーになりたいと言うと、妙に嬉しそうに笑って、ズタ袋と、使い古されたシュラフをくれた。
「これはお前にぴったりだ。グッドバイブス、ってやつさ」
礼を言って、俺はその足で本島を離れた。目指すは、噂に聞いた西表島の「ヒッピー浜」。集落とは反対側にある、文明から切り離された白砂の浜辺。裸で暮らすヒッピーたちが、自由とドラッグの中に溶けているという。そこへ行くには、ジャングルを抜けねばならない。
西表島には、一周する道路がない。しかも地図も情報も乏しく、縦断する者も少ない。だが、その無謀さがまた、俺には心地よかった。初夏の湿った風を切って、俺は一人、森に入った。
最初の夜、ジャングルの中にテントを張り、トムにもらったシュラフに潜り込んだ。蒸し暑くて、身体がすぐに汗で濡れた。
その晩、悪夢を見た。何かが、身体をずっと睨みつけていたような、皮膚の裏側が焼けるような恐怖だけが残っていた。目を覚ましたとき、俺は息を荒げ、シュラフの中で全身びしょ濡れになっていた。
次の日も、また悪夢。今度は腹の奥が焼けるように熱く、叫び声で目が覚めた。夜中なのに、耳元でがなり立てる声。意味はわからないが、英語のようだった。
三日目の夜。とうとう夢の中で、俺は死んだ。
焼けるような腹の痛みと、右腕に刺すような激痛。身体が宙に浮いたかと思ったら、何人かに担がれている。がなり声が耳元で繰り返され、何を聞かれているのかは分からない。ただ、頷いた。すると痛みがすうっと引いた。
気持ちよさすら感じた。まるでモルヒネでも打たれたような……いや、モルヒネだったのかもしれない。
また何か聞かれた。頷いた。気持ちよくなった。繰り返される。
やがて目の前に、黒人の兵士たちが現れた。みんな、顔が笑っていなかった。ひとりが、俺の耳元に顔を近づけてきた。唇が触れるかと思う距離だった。そいつは耳の穴を見せつけたあと、首を横に振った。
すると、視界が強制的に閉じられた。
ジッパーの音。
何かに包まれた。動けない。何も見えない。音もしない。考えも止まった。
そこにあったのは、完全な「無」だった。存在が削ぎ落とされ、意識が風のように薄れていく。
いや違う……これは、「死」だった。
気づいた瞬間、目を覚ました。身体は震えていた。声が出なかった。翌朝も歩いたが、ジャングルの中での遅れと恐怖で、足は進まなかった。
その後も何度も、夢の中で死んだ。
四日目。五日目。俺は何度も、同じように殺され、モルヒネを打たれ、ジッパーを閉められた。
ようやくたどり着いた浜には、全裸の男女が十数人。笑っていた。酒と音楽と煙の中、彼らはそこに確かに「存在」していた。俺も裸になった。安心感が、波のように身体を包んだ。
だが、夜になればまた同じ夢が襲ってくる。死の体験。地獄のような恐怖と、薬物的な快楽。
ある日、焚き火を囲んでいるとき、俺はその話を口にした。男たちが顔を見合わせて笑った。
「Youの寝袋……それ、死体袋だよ」
……?
しばらく意味が理解できなかった。ぽかんとしている俺に、女の一人が説明した。
「戦争の終わりにね、払い下げで米軍の装備がいっぱい流れてきたの。トムって男が持ってたやつ、アレもよ。ベトナムで戦死した兵士を運ぶ、ボディバッグってやつ。ほんとの死体が入ってたやつね」
頭が真っ白になった。
「なんで、教えてくれなかったんだ……」
すると誰かが、クスクスと笑いながら答えた。
「だって……気持ちいいでしょ?あの、死ぬときにモルヒネ打たれた感覚。何度も味わえるんだよ、あれ。ドラッグより効くって言う人もいるくらいさ」
「死体袋ドラッグ」──そう呼ばれているらしかった。知らないうちに俺は、ベトナム戦争で戦死した兵士の最後の記憶を、借り物の身体で何度も体験していた。
それ以来、あの夢から逃れるため、俺は二度と袋に入って寝ることはなくなった。
けれど、今もたまに思う。
……あの快楽の感覚。あれが、あまりにも甘く、深く、静かだったせいで、死というものに対する恐怖が少しずつ削られているような気がする。
あの夜のジッパーの音だけは、今も耳の奥にこびりついたままだ。
[出典:982 :本当にあった怖い名無し:2020/08/09(日) 03:26:40.80 ID:12mDWFX70.net]