あれは、先月のまだ寒さが抜けきらない頃だった。
曇天の下、次男を連れて河原へ蕗の薹を探しに行った。春の匂いを探すつもりだったのに、季節はまだ少し手前で立ち止まっているらしく、足もとには枯れ草と小石ばかりが続いていた。
袋は軽いまま、私たちはどんどん下流へ歩いた。しゃがんでは草むらを覗き込み、立ち上がってはまた数歩進む。それを繰り返しているうちに、首筋に疲れが溜まって、視線が地面に張り付いたままになっていた。
あれを見つけた瞬間、胸の奥でなにかが跳ねた。
毒蛇を踏みそうになったときの、あの生ぬるい恐怖が背骨を走った。
それは、木の切り株――と呼ぶにはあまりにも細い、直径六センチほどの若木だった。しかも切り口が斜めに鋭く断ち落とされていた。まだ生木の繊維が白くむき出しになり、そこから湿った匂いがわずかに立ち上っていた。
次の瞬間、頭の奥底へ、刃物で押し込まれるように言葉が突き刺さった。
『無念だ……』
耳で聞くというより、骨の中で響く声だった。
続けざまに、さらに深く、
『無念だ、無念だ……』
心拍が急に重たくなり、足首のあたりに冷たいものがまとわりつく。動こうとすると、地面の下から誰かの手が伸びて掴もうとしてくる気配があった。私は息を殺し、背中を丸めたまま、次男の腕を強く引いてその場を離れた。
その夜、夢には出なかった。
それでも、胸の奥に石を入れられたような重さが残っていて、寝返りを打つたびに鈍く響いた。日が変わっても、その重さは消えなかった。
理由もなく、何かをしなければならないという衝動だけが、頭の中を満たしていった。
翌日、私はノコギリを持って河原へ向かった。
あの木を切り倒そうという明確なつもりはなかった。むしろ、尖った切り口を思い出すたび、胸の奥で何かがチクリとする。その幻痛のような感覚を、刃物を手にすることで打ち消したかったのだと思う。
鉄の柄を握った時点で、心のどこかに安堵があった。
河原に着き、昨日の若木と向かい合った。
不思議なことに、あの渦を巻くような念は感じなかった。
ただ、沈黙してこちらを見ている気配だけがあった。
私はしゃがみ込み、切り口から幹をたどった。半ばほどまで触れたところで、手触りが変わった。乾ききった無機質な質感が、突然そこに現れていた。まるで木ではない別の何かが皮の内側に潜んでいるようだった。
気づけば、右手のノコギリの刃をその部分にあてがっていた。
本来なら、この瞬間こそ木が抵抗するはずだ――そう思ったが、まるで違った。
刃を進めるごとに、そこから放たれる空気が軽くなっていく。
木肌の奥で、目に見えない筋がほどけていく。
それは、まるで痒みにようやく爪が届いたときの、あの静かな快感に似ていた。
切り落とすと、断面から透明な樹液がじわりと滲んだ。
その瞬間、背中の重石がふっと消えた。
理由もなく「これでいい」と思い、ノコギリを肩に担いで帰路についた。
その晩、客人があった。
夕餉の支度をしながら、何とはなしに河原での出来事を話した。奇妙な話としてではなく、「尖った切り口が気になったから平らに切ってきた」という程度の調子で。話すうち、私の中であの体験を薄めてしまおうという意図があったのかもしれない。
客は年配の男で、私の親世代だった。
一通り聞くと、箸を置いてぽつりとこう言った。
「ああ、その木、あんたに救われたかもしれんな」
思わず聞き返す。
「救われた……?」
「斜めに切られると雨水が溜まって、腐って枯れることがある。今の時期に平らにしてやれば新芽が出るかもしれん。そうなったら、あんたに助けられたってことになる」
私は笑ってうなずき、その場は終わった。
だが夜、台所で大根に包丁を入れたとき、ふと考えてしまった。
もしも野菜にも声があるのなら――。
私の耳に届かないだけで、この白い根は今、悲鳴をあげているのではないか。
『痛い』『やめてくれ』と。
そして、あの木が発していたのは、もしかしたら……助けを求める声ではなく、
最後に残った「痛み」の吐息だったのかもしれない。
包丁の刃先が大根を割る音が、やけに湿っぽく響いた。
[出典:210 :まめ。 ◆zZeG7TJIaY:2005/04/05(火) 18:58:01 ID:fgAov1In0]