これは、ある日突然奇妙な体験をしたという男の話だ。
数年前のことだ。電車の中でふと荷棚に目をやると、一冊の単行本が置かれていた。誰かが忘れたものらしい。特に目的もなくページを開いてみたところ、その本には奇妙なタイトルが書かれていた。「禁断の呪文集」という、まるで冗談のような名前だ。
中をめくってみると、恋愛成就や試験合格、果ては寿命を延ばすといった、およそ怪しげな呪文がずらりと並んでいる。もっともらしい言葉と、簡素な手順。暇つぶしに読むには十分だった。そのまま降車駅に到着したが、ついその本を手にしたまま電車を降りてしまった。面白半分だったが、どこか得体の知れない魅力があったのだ。
その日は天気も良く、昼間の公園は穏やかだった。ベンチに腰掛け、本を再び開く。ふと「雨乞いの呪文」というページが目に留まった。たしか、ここ数日は晴天続きで乾いた空気が漂っていた。何の気なしに、その呪文を口にしてみることにした。子供の遊びのようなものだ。
だが、呪文を唱え終えた瞬間、異様な変化が訪れた。どこまでも青かった空がみるみる黒く染まり、冷たい風が辺りを吹き抜けた。空は重く垂れ込め、雷鳴が鳴り響く。そして、突如として豪雨が降り始めた。その雨の激しさたるや尋常ではなかった。まるで空そのものが破れたかのような勢いだ。
屋根のある場所に避難し、ただ呆然とするしかなかった。あれほどの快晴から一転して嵐になるとは、まさに信じられない光景だ。しかし、三〇分ほどすると、雨は嘘のように止み、黒雲は一気に消え去っていった。気づけば、またあの快晴の空が戻っていた。
偶然か。それとも、本当に呪文の力なのか。奇妙な体験に半ば興奮しつつ、その夜は自宅で再び本を読むことを楽しみにしていた。今度は金運を上げる呪文を試そうか、あるいは他のもっと強力そうなものを試してみようか。そう思いながら、意気揚々と帰宅した。
だが、いざ家に着いてみると、本が見当たらない。カバンの中を何度探しても、どこにもない。思い返せば、どういうわけか、電車を降りる直前に荷棚へ戻したような記憶がぼんやりと浮かび上がる。意志に反して、何かに操られたかのように。
数日が経った。その日も快晴で、雲ひとつない空が広がっていた。だが突然、またしても空が真っ暗に染まり、激しい雷鳴と共に豪雨が始まった。そして三〇分ほどの豪雨の後、また晴天が戻る。まるであの日の出来事が繰り返されているようだった。
そのときふと、あの本を拾った誰かが呪文を唱えたのではないか、という考えが頭をよぎった。そして奇妙な確信が胸をよぎる。「あの本は、次の持ち主のもとへ移っていったのだ」と。
本は、きっと誰かを選んで旅を続けているのだろう。次はどこへ、そして誰の手に渡るのか。それはもう、自分の知るところではない。
(了)
[出典:629 :本当にあった怖い名無し:2012/02/11(土) 15:01:43.41 ID:JhRLXcCz0]