大きめの姿見がある家に住んでいる人は、一度試してみてほしい。
ただし、くれぐれも“継続”はしないように。
――鏡のなかの自分を、じっと見つめながら、言ってみるんだ。
「お前は誰だ」
霊的な話じゃない。オカルトでも都市伝説でもない。
むしろ、もっと冷たく、皮膚の裏をぞわりと這うような感覚。理屈で説明できる範囲の、だからこそ逃げ道のない、そんな不安。
この話を初めて知ったのは、当時よく通っていた某掲示板だった。
軍事系のスレッドに、戦中ナチスが行なった心理実験の一例として書かれていた。
鏡を使った人格剥離のための技法――日々、自分の姿を鏡に映しながら、あえて名前を否定させ、自己認識を歪ませることで被験者を操作しやすくする、というもの。
「一日数回、鏡の前で自分に問いかけ続けさせる。十日で判断力が崩壊し、三ヶ月で自我の崩壊が起こる」
眉唾だった。
だけど、どこか惹かれてしまった。否、試してみたくなったと言うべきか。
あのときの僕と中島は、少し浮かれていたのだと思う。
都市伝説めいた話に、リアルな戦争の影が混ざることで、かえって現実味を帯びて見えた。
「ウソくせー。試しにやってみようぜ」
夜、僕の家にある姿見を使って、まず僕からやってみることになった。
蛍光灯を消し、薄暗いスタンドライトだけを頼りに、鏡の前に立つ。
室内の空気がぐっと冷たくなった気がして、息が白くなったような錯覚すらあった。
緊張と興奮、そしてどこか軽い罪悪感。
鏡のなかの僕は、当然のように僕を真似て動き、表情をなぞっていた。
……ただ、一瞬だけ違う顔に見えた気がして、喉がきゅっと詰まった。
「お前は……誰だ?」
自分の声が、自分の耳に届いた瞬間、胃の裏に冷たい水が流れたような感覚がした。
ぐらり、と視界が歪んで、足元が崩れるような不快なめまい。
うえっ、と吐き気が込み上げてきて、そのまま洗面所で胃液だけを吐いた。
「やっぱヤバいな、これ……」
翌日、中島に話すと、彼はまるで興味を失ったように笑い飛ばした。
「なにそれ、ダッセーな。怖くもなんともねぇよ」
その口ぶりがやけに引っかかったが、それ以上追及はしなかった。
それで話は終わったはずだった。
……数週間後。
中島は、妙に学校を休むようになった。
登校している日でも、視線が合わなかった。話しかけると、目の奥がどこか揺らいで見える。
「……ん? ああ、なんでもない」
何を聞いても上の空。まるで夢の中にいるような返事。
そして、あの夜。深夜、ふいに電話が鳴った。
寝ぼけた頭で受話器を取ると、中島だった。だが第一声が奇妙だった。
『……なあ、俺ってさ……俺だよな? 俺って……中島翔太だよな?』
声が震えていた。まるで泣く寸前のようだった。
「なに言ってんだよ、おまえは中島翔太だろ、間違いないって」
そう返すと、しばらくの沈黙の後、安堵するような息遣いが聞こえた。
『……そっか。そうだよな』
そしてぽつりぽつりと語り始めた。
『……あの後さ、ちょいちょいやってたんだよ。鏡のアレ。何か気持ちよかったんだ。自分が自分じゃなくなっていく感覚って、妙に……ゾクッとする』
僕はぞっとして、すぐにやめろと強く言った。だが、彼の返事はおかしかった。
『いや、大丈夫だから。これでいいんだ、これで……だいじょうぶ、いや……コレで良いんだ、いいんだ、だいじょうぶ……』
機械のように繰り返し、そして電話は不意に切れた。
再度かけ直すと、ようやく十二回目のコールで繋がったが、出た中島の声が低く、奇妙だった。
『……お前、誰だ?』
……その瞬間、通話は切れ、二度と繋がらなかった。
それ以降、中島は学校にまったく現れなかった。
後日、中島の親が下宿先を訪れた。連絡が取れないことを不審に思ってのことだった。
そしてそこで、信じられない光景を目の当たりにしたらしい。
中島は、洗面所の三面鏡の前に座り込み、親の呼びかけにも応じず、へらへらと笑いながら鏡に向かって喋り続けていたという。
そう、自分自身に。鏡の中の中島に。
まるで、そこに誰か“別のもの”がいるかのように。
今では、実家に引き取られ、地方の病院に入院していると聞いた。
精神状態は幾分安定したらしいが、病室には「鏡面のあるもの」は一切置かれていないという。
僕自身、あの一度きりで充分だった。
だけど、最近ふとおかしなことが増えた。
顔を洗って鏡を見ると、一瞬だけ見知らぬ女が映っていることがある。
ギョッとして見直すと、それは確かに僕の顔なのだ。
けれど……そうだったか?
……これが僕の、顔だったか?
――ねぇ、私って、私……だよね?
[出典:467 名前:ゲシュタルト崩壊:2006/05/16(火) 16:29:54 ID:k4IXe2x40]