大きめの姿見がある家に住んでいる人は、一度だけ試してみてほしい。
ただし、絶対に継続はしないこと。
鏡の前に立ち、自分の目を見ながら、こう言う。
「お前は誰だ」
霊的な話ではない。
オカルトでも都市伝説でもない。
むしろ、理屈で説明できてしまう範囲の話だ。だからこそ、逃げ場がない。
この話を知ったのは、当時入り浸っていた匿名掲示板だった。
軍事系のスレッドで、戦時中に行われたとされる心理操作の例として、唐突に投下されていた書き込みだ。
鏡を使う。
名前を否定させる。
自己認識を曖昧にし、判断力を削ぐ。
細かい理屈は断片的で、出典も曖昧だった。
それなのに、やけに生々しかった。
「毎日、鏡の前で自分に問いかけさせる。続けるほど、自分という輪郭が削れていく」
数字も期間も、どこまでが本当かわからない。
だが、だからこそ妙に現実味があった。
その話を読んだ夜、僕と中島は少し浮かれていた。
大学に入り、自由と退屈が同時に押し寄せてきた頃だった。
「ウソくせーな。でもさ、逆に気にならね?」
そう言ったのは中島だった。
彼は怖がるタイプじゃない。むしろ、危ない橋ほど面白がる。
その夜、僕の部屋で試すことになった。
一度だけ。冗談半分で。
蛍光灯を消し、スタンドライトだけを点ける。
姿見の前に立つと、部屋の奥行きが妙に歪んだように感じた。
鏡の中の僕は、当然のように同じ動きをする。
瞬きも、呼吸も、完全に一致している。
……はずだった。
ほんの一瞬、目の動きが遅れた気がした。
気のせいだと思おうとした瞬間、喉の奥がひくりと痙攣した。
「……お前は、誰だ」
声に出した途端、視界がぐらりと傾いた。
胃の裏に冷たいものが流れ込む。
立っていられず、そのまま洗面所で吐いた。出たのは胃液だけだった。
「やっぱヤバいって、これ……」
中島は笑っていた。
「ビビりすぎだろ」
それきり、その話題は終わった。
少なくとも、僕の中では。
数週間後、中島は妙に落ち着いていた。
騒がしかった彼が、必要以上に冷静だった。
講義にも出ている。単位も落としていない。
ただ、視線が合わない。
話しかけると、一拍遅れて反応する。
「……ああ、大丈夫」
その「大丈夫」が、どこにも向いていない気がした。
ある夜、深夜に電話が鳴った。
中島からだった。
『なあ……確認していいか』
声がやけに静かだった。
『俺とお前って、どうやって知り合ったんだっけ』
一瞬、答えに詰まった。
サークルだ。最初は飲み会だった。
そう答えると、受話器の向こうで、深く息を吐く音がした。
『……そっか』
沈黙のあと、彼は続けた。
『あのさ、あれ、まだやってる』
胸が冷えた。
『気持ちいいんだ。鏡の前でさ、考えなくていい感じになる。名前とか、関係とか、全部どうでもよくなる』
すぐにやめろと言った。
冗談じゃない、今すぐだ。
だが、返事は噛み合わなかった。
『大丈夫。これで合ってる。合ってるんだ』
同じ言葉を、少しずつ抑揚を変えながら繰り返す。
そして、ぷつりと切れた。
かけ直す。
何度目かで繋がったが、声が違った。
『……お前、誰だ』
通話はそれで終わった。
それきり、二度と繋がらなかった。
中島は、学校に来なくなった。
後日、親が下宿を訪ねた。
連絡が取れないことを不審に思ったらしい。
洗面所で見つかったという。
三面鏡の前に座り込み、誰もいないはずの空間に向かって話しかけていた。
笑いながら。
まるで、返事が返ってくるのが当然だという顔で。
今は地方の病院に入っていると聞く。
病室には、鏡になるものは一切置かれていないらしい。
僕は、あの一度きりでやめた。
それで終わったはずだった。
それなのに、最近おかしなことがある。
顔を洗って、ふと鏡を見ると、知らない癖が映っている。
視線の角度。
口元の緊張。
昔からの自分では、ありえないもの。
見直せば、確かに僕の顔だ。
記憶も一致している。
何も問題はない。
……ない、はずだ。
けれど、思う。
本当に、これは僕の顔だったか。
――ねぇ、私って、私……だよね?
[出典:467 名前:ゲシュタルト崩壊:2006/05/16(火) 16:29:54 ID:k4IXe2x40]