あれが、夢だったのかどうか、もう確かめようもない。
でも、あの時の足の裏にまとわりついた土の冷たさと、畳の目に沁みた線香の匂いだけは、今でもはっきり思い出せる。
私がまだ七つのときのことだ。両親に連れられて、山間の村にある曾祖母の家へ行った。母の方のひいばあちゃんで、私は数えるほどしか会ったことがなかったが、笑うと目尻がきゅっと下がる、ちょっと狐みたいな人だった。
その家は古くて広かった。瓦屋根に苔が生えていたし、床の間にはやたらと大きな壺や、木彫りの仏像、知らない虫が描かれた屏風まであって、まるで古い博物館のようだった。
大人たちは仏間で何やら真面目な話をしていて、私はすぐに部屋を追い出された。
探検だ、と思った。あの頃の私は、広ければ広いほど、その空間に名前をつけて遊べると思っていた。書院造の引き戸を開けるたびに、自分がどこか違う世界に入り込むような気がして、興奮していた。
そんなふうに、うろうろと畳の部屋を抜けていたときのことだ。
角を曲がったところで、ひいばあちゃんと鉢合わせた。
最初は、ああ、見つかっちゃった、と思った。畳の上でドタバタしてたし、怒られると思ったのだ。でも、彼女の顔には怒りよりも、なにかもっと強い、別の感情が浮かんでいた。
「こっちへ来なさい」
その声は、低く、乾いていて、いつものひいばあちゃんとは違っていた。
逃げようかと思ったが、足が動かない。次の瞬間には、ひいばあちゃんの手が私の手をつかんでいて、もう離す気配はなかった。
そこから先の記憶が、妙にぼやけている。
私は、彼女に手を引かれて、襖を一枚、また一枚と開けては進んだ。畳の部屋をいくつも、いくつも。どれも似たような構造なのに、微妙に風の匂いが違った。どの部屋も窓は閉じられ、空気がこもっていて、まるで人が長く使っていないようだった。
もう十回は襖を開けた気がする。家ってこんなに長かったっけ?と心のどこかで思っていた。
ようやく行き止まりにたどり着いたとき、そこは小さな茶室のような部屋だった。
障子越しに、日がやわらかく差し込んでいた。床の間には掛け軸がかかっていて、生花が置かれているはずの場所には、紫色の布が丁寧に畳まれていた。着物か、袱紗か、それとも何かの覆いか。よくわからなかった。
「ここに座っときなさい」
ひいばあちゃんがそう言ったから、私は言われるまま、部屋の隅に座った。
静かだった。ひいばあちゃんは、何も言わず、私の方をじっと見ていた。じっと。まばたきもしないようだった。でも、不思議と怖くはなかった。その部屋には、何か柔らかい匂いが漂っていて、私は安心したのだ。たぶん、紫の布の香りだったのかもしれない。
それから、どれくらい時間が経ったのか。私は眠気に負けて、うとうとし始めた。
夢と現実の境目が曖昧になった頃、不意にごそごそと音がして目が覚めた。
ひいばあちゃんが、あの紫の布を広げて、何かをしていた。
「何してるの?」
眠たさの残る声で尋ねると、彼女は布を膝に乗せたまま、方言で何かを呟いた。はっきり聞き取れたのは、「わたしに着せる着物が……」というあたり。
そして私の方を見て、言った。
「オンドウさまがいらっしゃるから、ここにいるんだろう?」
そのとき、ぞわりと背中をなでられたような感覚があった。
なんのことかわからなかった。けれど、私はとっさにこう口にしていた。
「おはぎ食べる約束したから、戻る」
自分でも驚いた。そんな約束していなかったし、そもそも前の日に全部食べてしまっていた。でも、口から勝手にその言葉が出ていたのだ。
ひいばあちゃんは、じっと私を見ていた。しばらくして、ふっと息を吐いた。
「なら、しかたないな」
そう言って、また私の手を握り、襖を開けた。
外は、知らない場所だった。
木の匂いが強く、空気が冷たかった。足元は土。気づけば、私は裸足で立っていた。さっきまでの茶室はどこにもなく、後ろを振り返っても、そこにはただ古い柱と板の壁しかなかった。
そして、ひいばあちゃんも、いなかった。
私は泣いた。何が起きたのか、全くわからなかった。大声で泣いていたら、お寺の僧侶が現れて、驚いた顔で私を抱き上げた。
どうやらそこは、ひいばあちゃん宅の裏山にある古いお寺だったらしい。私は、曾祖母の家からは到底一人で来られない距離を、どうにかして歩いてきたらしかった。
連絡が行って、両親が飛んできた。母に強く叱られた。「なんで一人で出たの」「靴も履かずにどこ行ってたの」。泣きじゃくりながら説明しても、「ひいばあちゃんはあんたとずっと一緒にいなかったよ」と笑われた。誰も信じなかった。
曾祖母は、そのとき仏間でお茶を入れていたらしい。私が茶室で寝ていた時間と、ほぼ同時刻だったという。
それから数日が過ぎ、何事もなかったかのように私たちは町へ戻った。
私はずっと、あの「オンドウさま」が誰なのか気になっていた。大人になったらひいばあちゃんに尋ねよう、と思っていたのに、その数ヶ月後に亡くなってしまった。
葬儀の時、紫色の喪服を着せられた曾祖母の顔を見て、私は、思い出してしまった。
あの布だった。
ずっと床の間にあった、あの紫の、柔らかい香りのする布だった。
曾祖母の家は、先日、取り壊された。親戚一同が集まった時に、ふとこの話をしたら、みんな曖昧な笑いを浮かべていた。
「お不動さんのことじゃない?」と、近くの寺の住職が言ったが、曾祖母は神社に熱心な人だったはずだ。なぜ仏の名があそこで出てくるのか、腑に落ちない。
ただ一つ、いまでも確信していることがある。
あの時、私の手を引いていた曾祖母は、本当に曾祖母だったのか。
それだけは、ずっとわからない。
[出典:771 :1/5:2013/10/06(日) 12:51:43.69 ID:ybnRlM5q0]