これは、大学生だった頃に知り合いから聞いた話だ。
彼は特に霊感があるわけでもなく、オカルト好きという程度で、心霊体験とは無縁の人生を送っていたという。
十月のある夕方、大学の授業を終え、いつものように車で家へ向かっていた。片道一時間ほどの道のり。外はすでに暗く、小雨がフロントガラスを叩いていた。途中で携帯電話を確認すると、バッテリーがほとんど残っておらず、電源も入らない。仕方なく、公衆電話を探すことにした。
周囲は田園が広がる田舎道で、人家もまばらだ。二十分ほど走った末、ようやく古い売店の横に電話ボックスを見つけた。売店のシャッターは閉まり、街灯が一本あるだけの、妙に取り残された場所だった。
電話ボックスの中には、白いシャツに黒いスカートの女性が立っていた。長い黒髪が、曇ったガラスにぼんやりと映っている。彼は一瞬「幽霊か」と思ったが、すぐに自嘲して車を停め、電話が終わるのを待った。
数分後、もう一度目を向けると、女性の姿は消えていた。迎えでも来たのだろうと考え、彼はボックスへ向かった。
中に入ると、湿った生温かい空気が肌にまとわりついた。受話器は雨で濡れており、ポケットのティッシュで拭いた。その瞬間、腕の隙間から「足」が見えた。
電話ボックスの中には、自分しかいないはずだった。
息を止めて振り返ると、そこに先ほどの女性が立っていた。うつむいていて顔は見えない。だが、確かにいる。彼の背後に。
恐怖で声も出ないまま受話器に手を伸ばすと、女性が突然ドアに手を掛け、外へ出ようとし始めた。彼は反射的にドアを押さえた。力は強くも弱くもなく、一定の圧でじわじわと押し返してくる。その不自然な力に、時間の感覚が狂った。
どれほど続いたかわからない。突然、女性は手を離し、音もなく彼の車の方へ歩き出した。その歩き方は、足が地面に触れていないように見えた。
彼は慌てて車に戻り、鍵を掛け、車内を見回した。誰もいない。それだけで少し安心した。しかし、車内の空気は電話ボックスと同じ、生ぬるく湿った感じが残っていた。
エンジンをかけ、走り出すと、すぐに後部座席に気配を感じた。振り返れない。ミラーも見られない。次第に、その気配は助手席へと移動した。視界の端に、黒い輪郭のようなものがちらつく。
耐えきれず、ルームライトを点けた。
その瞬間、気配は消えた。
その後、彼は一度もその道を通っていない。電話ボックスの場所も、正確には思い出せないという。
ただ、数日後、車の掃除をしたときのことだ。晴れが続いていたにもかかわらず、後部座席のフロアマットだけが、雨に打たれたように湿っていた。
原因はわからない。
そして、彼は今でも、車内でバックミラーを見るのが苦手だという。
(了)
[555 名前: ma--bu◇ 2006/08/05(土) 16:11:11 ID:jazf6rqi0]