これは、昭和の終わり、湿度の高い記憶の底にある話だ。
一人の少年と、その両親。どこにでもある家族のドライブが、取り返しのつかない「儀式」になってしまった記録である。
今から三十五年ほど昔のことになる。
私がまだ小学低学年だった頃、東京の城南地区にある実家は、常に微かな鉄と油の匂いが漂っていた。自営業を営む父の仕事場の匂いだ。その匂いは生活の隅々にまで浸透しており、朝の味噌汁の湯気にさえ混じっているような気がした。
家には仏壇も神棚もあった。毎朝、父が柏手を打ち、母が水を換える。それは信仰というよりは、歯磨きや洗顔と同じ生活の動作の一部であり、そこに敬虔な祈りや畏怖が存在した記憶はない。ただ、習慣という名の無機質な反復があるだけだった。
異変は、梅雨入り前の湿った日曜日の朝食時に起きた。
窓の外は薄い灰色で、庭の紫陽花が重たげに首を垂れている。卓袱台を囲んで箸を動かしていると、母が唐突に箸を止めた。視線は虚空を泳いでいる。
「……夢を見たのよ」
母の声は、いつもの明るい調子ではなく、どこか風邪をひいた時のように低く、ざらついていた。
父が新聞から目を離さずに相槌を打つ。私は卵焼きの黄色を見つめたまま、母の次の言葉を待った。
「山の上なの。名前も知らない山。そこにね、崩れかけた祠があるの」
母は自分の右肩を左手で強く握りしめた。指の関節が白く浮き上がっている。
「その中に、誰かがいる。神様なのか、仏様なのか、それとも……もっと別のものなのか分からない。でも、人の形をしているわ。その人が泣いているの。右の肩が割れて、そこから血が……いえ、もっとどす黒い、泥のようなものが溢れ出していて、痛い、痛いって」
母の眉間に深い皺が刻まれる。普段、夢の話などしない母が、まるで今その痛みを感じているかのように脂汗を滲ませていた。
「治しに来てくれって、懇願されるの。私の目を見て、はっきりと」
父はようやく新聞を畳んだ。母の様子が尋常でないことを察したのだろう。部屋の空気が急に澱んだように重くなる。換気扇の回る音だけが、やけに大きく響いた。
合理主義の父なら笑い飛ばすかと思ったが、彼は意外にも真顔で母の顔を覗き込み、そして短く言った。
「行ってみるか」
気晴らしだ、と父は付け加えた。家にいても気が滅入るだけだ。もし何もなければ、近くの牧場へ行ってソフトクリームでも食べればいい。そう言って笑おうとしたが、その笑顔は引きつっていた。母の夢の話があまりにも具体的で、その痛みの描写が生々しかったからだ。
私たちは青いカローラに乗り込んだ。
エンジンの振動が尻から背骨へと伝わる。車内には独特の芳香剤の甘ったるい匂いと、シートの埃っぽい匂いが充満していた。
母は助手席でずっと右肩をさすっている。私は後部座席で、流れる景色が都会の灰色から徐々に濃い緑色へと変わっていくのを眺めていた。空は低く、雲が垂れ込めている。まるで空全体が、私たちを押し潰そうとしているかのようだった。
首都圏内の某所。具体的な地名は伏せるが、山間部に入ると、空気の密度が変わった。
窓を開けると、むせ返るような草いきれと、湿った土の匂いが車内に流れ込んでくる。舗装された道路が途切れ、砂利道になり、やがて車では入れない遊歩道の入り口に辿り着いた。
「こっちだわ」
母が確信を持って指差した先は、遊歩道と言うにはあまりに頼りない、獣道のような細い筋だった。
父が躊躇したが、母はすでに歩き出していた。何かに引かれるように、あるいは何かに背中を押されるように、足取りは妙に速かった。
私と父は顔を見合わせ、慌ててその後を追った。
山の中は静かだった。鳥の声もしない。風が木々を揺らす音と、私たちの靴が枯れ葉を踏む乾いた音だけが響く。
湿度が高く、肌にシャツが張り付く。汗が首筋を伝う不快感。
しばらく登ると、急に視界が開けた場所に出た。そこだけ木が避けているように、ぽっかりと空間が空いている。
その中央に、それはあった。
「……あった」
母が呻くように言った。
夢で見た通りだという。石を積み上げただけの粗末な祠。屋根は半ば崩れ落ち、苔と蔦に覆われて、まるで山の一部に同化しようとしているかのようだった。
私たちは恐る恐る近づいた。
祠の中には、小さなお地蔵様が鎮座していた。
だが、それは通常のお地蔵様とは異質だった。経年劣化によるものなのか、それとも最初からそう作られたのか、顔の造作がひどく曖昧で、目と鼻の窪みが不規則に歪んでいる。笑っているようにも、苦悶に顔を歪めているようにも見えた。
そして、右肩。
母の夢の通りだった。
石の肩が大きく欠け落ちていた。
ただの破損ではない。断面が妙に滑らかで、濡れているように黒光りしていた。まるで、そこだけ石ではなく、生々しい肉が露出しているかのような錯覚を覚えた。私は思わず後ずさりした。本能が「触れてはいけない」と警告していた。
「痛かったでしょう」
母が震える声で呟き、祠の前に膝をついた。
躊躇いはなかった。母は持参した大判のハンカチを取り出すと、それを丁寧に折り畳み、お地蔵様の欠けた右肩に当てがった。まるで怪我の手当てをするように、優しく、慎重に。
さらに、風で飛ばないようにと、持ってきた手ぬぐいを包帯のように巻き付け、最後に小さな石を重石として乗せた。
その光景は奇妙だった。
古びた石像に、真新しい花柄のハンカチと手ぬぐい。その不釣り合いな鮮やかさが、かえって不気味さを際立たせていた。
母は手を合わせ、深く頭を下げた。
「また来ます。必ず、治しに来ますから」
その時だった。
背後の藪がガサリと鳴った。
私と父は弾かれたように振り返った。
そこには、一人の男が立っていた。
いつからそこにいたのか。足音は全くしなかった。
作業着のような泥汚れた服を着ている。年齢は五十代くらいだろうか。日焼けした顔に、深い皺が刻まれている。地元の人間に見えたが、その目はどこか焦点が合っておらず、私たちの背後にある祠を透かして見ているようだった。
「……こんなところで、何をしてなさる」
男の声は、擦れた紙ヤスリのように乾いていた。
父が努めて明るく振る舞い、事情を説明した。妻が夢を見て、気になって来てみたら本当に壊れたお地蔵様があったこと。勝手なことをして申し訳ないが、応急処置をしたこと。
男は無表情のまま聞いていたが、母が「右肩が痛そうだったから」と言った瞬間、ピクリと眉を動かした。
「……肩か」
男は低い声で呟いた。そして、ゆっくりと頷いた。
「そうか。あんた、優しいな。……町会に言っておくよ。誰もしなかったことを、あんたがしてくれたんだ」
男の口元が、わずかに歪んだ。それが感謝の笑みなのか、嘲笑なのか、私には判別できなかった。
「ありがとう、ございます」
母が安堵したように礼を言う。
私たちは逃げるようにその場を離れた。帰り道、一度だけ振り返ると、男はまだそこに立っていた。祠を見るわけでもなく、私たちを見送るわけでもなく、ただ虚空を見つめたまま、動かなかった。
車に戻ると、母の顔色は劇的に良くなっていた。
「行ってよかった。肩が軽くなったわ」
母は笑顔を見せた。父も「いいことをしたな」と安堵の息を吐いた。
だが、私は胸の奥に冷たい重りが残っているのを感じていた。
あのハンカチの下。
石の断面が、ハンカチの布地をゆっくりと吸い込んでいるように見えたのは、私の見間違いだったのだろうか。
それから数ヶ月、何事もなく過ぎた。
季節は秋になり、あの山のことを忘れかけていた頃、母が再び言い出した。
「あのお地蔵様、どうなったかしら。約束通り、もう一度行かないと」
今度は夢を見たわけではない。だが、母は妙に義務感に駆られているようだった。
私たちは再び、あの山へ向かった。
それが、間違いだった。
あるいは、最初からすべて仕組まれていたことだったのかもしれません。
秋の山は、前回の湿気が嘘のように乾いていた。
枯れ葉が舞い、空は高く澄んでいる。だが、その明るさが逆に、これから目にするものの異様さを際立たせることになった。
遊歩道を登り、あの場所に着いた時、私たちは声を失った。
「……きれいになってる」
母が呟いた。
崩れかけていた祠は消え、代わりに真新しいコンクリート製の小さな社が建っていた。屋根もしっかりしており、前にはステンレス製の花立まである。そこには色鮮やかな菊の花が生けられ、湯呑みには新しいお茶が供えられていた。
そして、お地蔵様。
社の中を覗き込むと、あのお地蔵様は「修復」されていた。
欠けていた右肩は、セメントのようなもので埋められ、元の丸みを帯びた形に戻っていた。表面は滑らかに整えられ、他の部分との継ぎ目も目立たない。
誰が見ても、手厚く管理され、大切にされている信仰の対象だった。
「よかった……」
母が涙ぐみながら手を合わせる。
「あの方が、話してくれたのね。町会の人たちが直してくれたんだわ」
父も満足げに頷いている。
しかし、私は違和感を拭えなかった。
綺麗すぎるのだ。
山奥の、誰も知らないような場所に、これほど立派な社を建てるだろうか。そして、あの「修復」跡。右肩のセメントの色が、石の色と妙に馴染みすぎている。まるで、石そのものが増殖して傷を塞いだかのように。
その時、遊歩道の奥から人の話し声が聞こえてきた。
山菜採りに来たのだろうか、お年寄りの集団が数人、こちらへ歩いてくる。
父がその中の一人の老婆に声を掛けた。
「こんにちは。ここ、随分ときれいになりましたね」
老婆は不思議そうな顔をして足を止めた。
「ああ、ここねぇ。最近、誰かが見つけたみたいでね」
「以前お会いした男性にお願いしたんです。直してくれてありがとうございます、と伝えていただけますか」
父の言葉に、老婆だけでなく、他の老人たちも顔を見合わせた。
怪訝な顔をしている。
「男性? ……いやあ、この辺りの管理は私たち老人会がやってるけど、そんな話は聞いてないねぇ」
老婆は首を傾げた。
「そもそも、ここにお地蔵様があるなんて、誰も知らなかったんだよ。あんたたちがここに来た後じゃないかね、誰かが見つけたのは。夏過ぎに急に、こんな立派な囲いができてて、私たちも驚いたんだ」
父の笑顔が凍りついた。
「え? でも、数ヶ月前に来た時、地元の方らしき男性に……」
「この辺にそんな男はいないよ。若い衆はみんな町へ出ちまったし、男手なんてありゃしない」
老人たちは口々に否定した。
「それにねぇ」
別のお爺さんが、声を潜めて言った。
「このお地蔵さん、元からここにあったもんじゃない気がするんだよ。昔から山に入ってるが、こんなの見たことねえ。誰かが勝手に持ち込んだか……あるいは、地面から湧いて出たか」
老人たちは気味悪そうに笑い、早々に立ち去っていった。
残された私たちは、沈黙した。
風が吹き抜け、社の奥のお地蔵様が、影の中で笑ったように見えた。
直された右肩。
そのセメントの下に、母のハンカチはまだあるのだろうか。それとも、あの「肉のような断面」が、何かを飲み込んでしまったのか。
「……帰りましょう」
母が急に、低い声で言った。
その声には、来た時のような晴れやかさはなく、何かに怯えるような響きがあった。
母は右肩を押さえていた。
帰りの車中、母は一言も発しなかった。
ただ、ずっと右肩をさすり続けていた。
「痛いの?」と聞いても、首を横に振るだけ。
その横顔は、行きとは別人のように青白く、生気が抜けているように見えた。
それから三十五年。
父は既に他界した。
そして母は今、施設で寝たきりの生活を送っている。
母の右肩は、あの後から徐々に動かなくなった。
最初は五十肩だと言われていた。だが、次第に筋肉が硬直していき、関節が固まり、やがて石のように動かなくなってしまったのだ。
医者は「原因不明の骨化性筋炎の一種」と診断したが、私は知っている。
先月、私は一人で、あの山へ行ってみた。
記憶を頼りにあの場所へ辿り着いた時、私は膝から崩れ落ちそうになった。
社はあった。コンクリートは苔むし、三十五年の歳月を感じさせた。
だが、中のお地蔵様。
その顔は、以前見た曖昧な造作ではなかった。
目尻の垂れ下がった、穏やかで、しかしどこか諦めを含んだ表情。
それは、今の母の顔に酷似していた。
そして、あの時「修復」されていた右肩。
そこには再び亀裂が走り、今にも崩れ落ちそうになっていた。
私は理解した。
あの時、母の夢はお地蔵様のSOSではなかった。
あれは「交換」の合図だったのだ。
朽ち果てそうになっていたあの石は、新しい器を求めていた。
母は「治してあげたい」という善意で、自らその契約に応じてしまった。
ハンカチを当て、手ぬぐいを巻き、名前も知らない男(あれは地蔵の化身か、あるいは運び屋だったのだろう)に認識された瞬間、パスは繋がったのだ。
母の生気は、三十五年かけてあの石に吸い取られ、代わりに石の硬さと冷たさが母の体に入り込んだ。
今、施設のベッドに横たわる母の体は、生きている人間とは思えないほど冷たく、硬い。
そして山の上では、母の顔をした石が、ゆっくりと、しかし確実に「人間」になろうとしているのかもしれない。
もし、あのお地蔵様の肩が完全に崩れ落ちた時、母はどうなるのだろう。
あるいは、母の体が完全に石になった時、あの像が山を降りてくるのだろうか。
今でも、微かな鉄の匂いと湿った土の匂いを嗅ぐと、右肩がうずくような錯覚に陥る。
次はお前だ、と言われているようで。
(了)
[出典:371 :本当にあった怖い名無し:2018/02/10(土) 09:49:32.61 ID:zyh5U9V60.net]