なぁ、人肉館に行かないか。
夏休みを利用して、久しぶりに長野の実家へ帰省した日の夜だった。
東京での生活に慣れきった身体には、山に囲まれた町の空気は驚くほど軽く感じられた。昼間は暑いが、風に湿り気がなく、夕方になると肌寒さすら覚える。実家の縁側から見える山並みは、子どもの頃と何一つ変わっていないはずなのに、なぜか輪郭が曖昧に見えた。
両親は外で仕事をしており、家には誰もいなかった。長距離移動の疲れもあり、居間で横になるとすぐに眠ってしまったらしい。目を覚ましたのは、携帯電話の着信音だった。
電話の相手は地元の友人だった。久々に帰ってきたなら飯でもどうだという、よくある誘いだった。家族が戻る前に一言メッセージを残し、彼は車で友人宅へ向かった。
食事は町の外れの食堂で済ませた。昔話と、誰それが結婚しただの引っ越しただの、どうでもいい話ばかりだった。だが、店を出たとき、友人は急に声を潜めて言った。
なぁ、人肉館に行かないか。
その名前を聞いた瞬間、胸の奥がざらついた。
人肉館。子どもの頃から噂だけは聞いていた。町外れの温泉街のさらに奥、山に入ったところにある廃墟だという。昔は焼肉屋だったらしいが、ある時期から誰もその店の話をしなくなった。事件があったとか、人が消えたとか、噂の内容は年々変わっていたが、共通していたのは「近づくな」という空気だけだった。
そんな場所、本当にあっただろうか。
彼がそう言うと、友人は曖昧に笑った。
さあな。でも、場所は分かる。
時刻は二十一時を回っていた。彼らはスマートフォンで地図を確認し、車を走らせた。町明かりはすぐに途切れ、山道に入る。道の途中に鳥居があり、その先は闇が濃く、ヘッドライトを向けても奥行きが分からなかった。
ここ、前からあったか。
彼が聞くと、友人は首を傾げた。
覚えてないな。昔はこんなのなかった気がする。
その言い方が、妙に引っかかった。
車を進めるにつれ、引き返せない感じが強まった。道幅は狭く、途中で方向転換はできそうにない。やがて、木々の切れ間に白っぽい建物が現れた。
建物は大きく、壁には苔がびっしりと張り付いていた。看板があったらしい金具だけが、錆びて残っている。ガラス張りだったであろう正面は割れ、床には破片が散らばっていた。
本当に、ここだったのか。
彼は確信よりも違和感を覚えていた。噂の割に、荒れ方が中途半端だった。古いが、時間の感触が掴めない。
エンジンを切ると、音が消えた。虫の声すら聞こえない。懐中電灯の光だけが、闇に穴を開けている。
二人は中へ入った。
ロビーのような空間を抜け、厨房らしき場所へ向かう。調理台や鍋が残っているが、どれも埃を被っているだけで、荒らされた形跡はない。壁には落書きがあるが、内容は意味をなさない文字の羅列ばかりだった。
奥に、扉があった。
南京錠がかかっている。
こんなとこ、来たことある気がする。
友人がぽつりと言った。
は?
彼が聞き返すと、友人は首を振った。
いや、気のせいか。
友人は拾った鉄棒で南京錠を壊した。止める間もなかった。扉の向こうには、奥へ続く通路と、上階への階段があった。
別れよう。
友人はそう言い、奥へ進んだ。彼は階段を選んだ。
二階は事務室のようだった。机や黒板、壁一面のガラス。下の広間が見下ろせる構造になっている。広間の中央には、四角い大きな箱のようなものが置かれていた。業務用冷蔵庫だろうか。
その箱を見た瞬間、理由もなく息が詰まった。
中身を想像したわけではない。ただ、あれは開いてはいけないものだと、身体が理解していた。
一階を見ると、友人の懐中電灯の光が揺れている。だが、その動きが不自然だった。歩いているというより、同じ場所を行ったり来たりしているように見えた。
声をかけようとしたが、声が出なかった。
代わりに、奇妙な感覚が湧いた。

この建物は、覚えられない。
名前も、出来事も、誰が何をしたのかも。思い出そうとすると、指の間から砂が落ちるように抜けていく。
階段を降り、一階へ戻る。友人の姿は見えない。中央の箱の前に立つと、低い唸り音が聞こえた。動いているのか、それとも耳鳴りか分からない。
彼は取っ手に触れた。
その瞬間、冷気が指に伝わった。
開けていない。
それなのに、中を見た気がした。
何があったのか、具体的には思い出せない。ただ、次の瞬間、彼は外へ向かって走っていた。理由もなく、全力で。
車に飛び込み、エンジンをかける。バックで下がり、必死に道を戻る。霧が出ていた。こんなに急に出るものだったか。
道の途中で、携帯が鳴った。
友人からだと思ったが、表示はなかった。
代わりに、母からの未送信メッセージが画面に残っていた。
いつ送ったのか、覚えていない。
「もう帰ってきたの?」
彼は震える指で返信した。
「やっぱり東京に戻る」
送信した瞬間、何かが車の横に立っている気配がした。
見る前に、彼はアクセルを踏み込んだ。
鳥居を抜け、町明かりが見えたとき、ようやく呼吸が戻った。
だが、頭の中に引っかかりが残っていた。
あの友人の名前を、思い出せない。
顔は浮かぶのに、名前だけが抜け落ちている。
翌日、町で人肉館の話を出してみた。
誰も知らなかった。
そんな場所はない。
昔から、ここにそんな店はなかった。
彼はそれ以上、何も聞かなかった。
聞けば、自分の中の何かまで消えてしまいそうだったからだ。
(了)