都会暮らしの主人公が、久々に帰省した夏の長野の実家。澄んだ空気と山々に囲まれた故郷に安らぐ彼だったが、旧友から「なぁ、人肉館に行かないか?」と誘われ、町外れにある噂の心霊スポットへと足を踏み入れてしまう。過去に焼肉店だったとされるその場所は、なぜか人々の記憶から消えつつあり、廃墟と化した今も謎めいた噂が絶えない。暗く荒れ果てた館内を進む二人が見た光景とは何か。田舎の静けさと漆黒の闇が恐怖を煽る、背筋が凍る一夜の恐怖体験。
「なぁ、人肉館に行かないか?」
夏季休暇の折、彼は久しぶりに実家のある長野県へ帰省する機会を得た。
普段は東京で勤務している彼の実家は、山間の町に位置しており、東京のように蒸し暑いことはなく、気温こそ高いが湿度が低く快適な気候であった。左右に連なるアルプスの山々が絶景を作り出しており、その景色を目にして彼は久方ぶりの故郷に対して深い懐かしさと安堵を感じていた。
実家に到着すると、家には誰もいなかった。両親は自営業を営んでおり、どうやら外で働いている様子であった。また、兄弟もどこかへ出かけているようであった。
彼は居間に腰を下ろしたが、仕事の疲れと早朝からの移動が重なり、強い疲労感に襲われた。家族が戻ってくるまで少し休むことにした。
ピピピピピ。ピピピピピ。
電話の着信音で彼は目を覚ました。友人からの電話であり、晩餐の誘いであった。実家に帰省した以上、家族と共に食事を取りたいという気持ちはあったが、それでも久しぶりに友人と会えることは彼にとって嬉しいことであった。彼はすぐに誘いに応じた。
時計を見ると、既に18時を回っており、夕日が部屋の中をオレンジ色に染めていた。家族の姿はまだなく、彼は顔を洗って母に食事に出ることをメールで伝えた。
身支度を整え、彼は車で友人宅へ向かった。呼び鈴を鳴らすと、懐かしい顔がドアから覗いた。久方ぶりに再会した友人と他愛もない会話を交わしながら、近所の食堂へ行くことになった。
食事を済ませ、店を出ようとしたとき、友人が興奮気味に言った。
「なぁ、人肉館に行かないか?」
人肉館とは地元で有名な心霊スポットの一つであった。町外れの温泉街から少し山を上った場所にある廃墟である。かつては焼肉店であったが、経営難から店主が殺人を犯し、人肉を商品として提供していたという噂が広まっていた。
彼は最初は乗り気ではなかったが、友人の強引な誘いとオカルトへの興味もあり、結局行くことにした。
時刻は21時を回っていた。彼らはネットで人肉館の場所を調べ、彼の車で現地に向かった。車を30分ほど走らせると、山の麓に到着した。入口には鳥居があり、その先には道が延びている。ヘッドライトをハイビームにしても、鳥居の先には漆黒の闇が広がり、何も見えなかった。
地図によれば人肉館はここから少し先にあるという。車で進める道ではあったため、歩く必要はないと判断し、彼は慎重に車を進めた。
未知なる先への恐怖と、これから向かう場所への恐怖が彼のアクセルを緩めさせた。狭い道を進み、奥でしかUターンできないことを考えると、この視界の悪さの中でバックで下ることは不可能だと悟った。
やがて左側に生い茂っていた木々が途切れ、建物が視界に入った。彼は車を停め、友人が懐中電灯で建物を照らした。
その建物はかなり大きく、白い壁にはびっしりとコケが付着していた。錆びた金属のフックが、かつてここに看板があったことを示唆していた。
広がるロビーのような空間には散乱したガラスの破片があり、かつては一面ガラス張りで外からでも内部の様子が見えたのだろうと彼は想像した。
彼はここが噂の人肉館であることを確信し、車のエンジンを切った。静寂がさらに強まり、周囲はまるで世界から音が消え去ったかのように静まり返っていた。虫の鳴き声すら聞こえない不気味な森の中、闇はどこまでも深く、底知れない暗闇が彼を包んでいた。車のヘッドライトを消すことに彼は強い恐怖を覚え、その手はしばらくスイッチの上で躊躇した。
真っ暗な森に二人きり、彼らは懐中電灯の光だけを頼りに建物内に足を踏み入れた。
彼は友人と共に奥へ進み、厨房に入った。そこには錆びついた調理台や、蜘蛛の巣に覆われた天井が広がり、以前に訪れた者たちが描いた落書きが壁一面に散らばっていた。
調理台には無造作に古い鍋や調味料の瓶がいくつか転がっていたが、どれも使用されている気配はない。彼はその場所の長い放置の歴史を感じ取り、自然と背筋が寒くなった。友人は興奮を隠せない様子で、さらに奥への通路を見つけたようだった。
彼は友人についてさらに奥へ進んだ。その先には南京錠で閉ざされた頑丈なドアがあった。友人はどこからか拾ってきた鉄の棒を手にし、息を荒げながら南京錠を壊そうとし始めた。彼は友人の行動に戸惑い、ためらいながらも「やめろ」と声を掛けたが、友人は振り返りもせずに力を込め続けた。
そのとき、彼の心の中にはこの先に進むべきではないという不安が膨らんでいた。しかし、友人の顔には決意とわくわくするような興奮が浮かんでいた。そして、彼がそれを止めようとしたその瞬間、金属が砕けるような南京錠の壊れる音が暗闇に響き渡った。
ドアの先にはさらに奥へ続く廊下と、上の階へと続く階段があった。彼は友人にここで二手に分かれることを提案し、友人は奥へ進み、彼は階段を登ることにした。
階段を登ると、そこには事務机や黒板、ホワイトボードが並んだ部屋が広がっていた。さらに奥の壁は一面ガラス張りで、一階が見渡せる造りになっていた。
彼はガラス越しに一階を見下ろし、巨大な機械や藁が散らばった広い部屋を見つめた。その中央には円形のスペースがあり、そこには四角い巨大な箱が置かれていた。箱には何かが描かれたような跡があり、それが朽ち果てて見えなくなっていたが、彼はそれがかつて何を意味していたのか考えずにはいられなかった。
彼はこの部屋が食肉の加工施設であった可能性が高いと考えた。柵で囲まれたスペースに家畜を入れ、中央のスペースで解体し、その一部が料理として提供されていたのだろう。そして、もし噂が本当であるならば、人もここで解体されていたに違いない。
そんな考えに思いを巡らせながら一階を見ていると、友人の持つ懐中電灯の光が見えた。友人は機械の付近を歩いていたが、やがて影に隠れて見えなくなった。
彼は一通り部屋を見て回った後、階段を降りて友人が戻ってくるのを待った。しかし友人はなかなか戻ってこなかった。心配になり、彼は再び友人を探しに行くことにした。
通路を進み、円形のスペースにたどり着くと、そこには巨大な業務用冷蔵庫があった。その不自然な存在に恐怖を感じながらも、彼は取っ手に手をかけてみたが、扉は開かなかった。
そのとき、突然冷蔵庫が轟音を立てて動き始めた。彼は冷蔵庫に振り向くと、扉がゆっくりと開き始めた。
冷蔵庫が動き出したときのその轟音は、まるであらゆる静寂を切り裂くかのように響き渡り、彼の鼓動はますます早まった。そして、その中にあったのは友人の首であった。両目からは血が流れ、黒目は別々の方向を向いており、口からはまるで蛇のように長い舌が飛び出していた。
彼は失禁し、その場に座り込んでしまった。悲しみと恐怖に打ちひしがれ、ただ呆然とするばかりであった。そんな彼の耳に、どこからともなく金属の擦れる音が聞こえてきた。
その音は冷蔵庫の奥、月明かりの届かない闇の中から響いていた。彼は懐中電灯の光を音のする方へ向けると、血塗れのエプロンと手袋を身に着けた男と、友人の血で真っ赤に染まった服を着た女が現れた。女の手には友人の腕が握られていた。
女の目は不自然に大きく見開かれており、まるで何かに取り憑かれたかのようにその腕時計に執着しているようであった。男は笑みを浮かべながら、両手に持った長い包丁を擦り合わせ、鈍い音が暗闇に響いていた。
彼は恐怖で震えながらも立ち上がり、全力で出口へ向かって走り出した。背後には叫び声と物が壊れる音が響き、彼は車に飛び込んだ。
エンジンをかけ、山を登り続けると、霧が視界を覆い始めた。速度を落としながら転回できる場所を探していると、鉄製の門が現れ、道の終わりを告げていた。
彼は車を停め、友人のことを考えて涙を流した。そして携帯電話を取り出し、母親にメッセージを送信した。
「お母さんごめん。やっぱり東京に戻るよ」
送信を終えた瞬間、彼の横に立っていた男が車の窓ガラスを叩き割った。
男の手は恐ろしいほどの力でガラスを粉々にし、その破片が彼の顔に飛び散った。男の目には狂気の光が宿り、その口元には歪んだ笑みが浮かんでいた。彼は反射的に腕で顔を守りながら、車内にさらに潜り込むように身を寄せた。
彼の心臓は激しく鼓動し、呼吸が乱れていた。ガラスの破片で小さな切り傷を負いながらも、彼は男から逃れなければならないと理解していた。男は腕を伸ばし、彼に掴みかかろうとしていた。凶器である包丁が彼の視界に入ったとき、彼はこの場で終わりを迎えるのではないかという強い恐怖に襲われた。
その瞬間、彼は車のギアをバックに入れ、アクセルを踏み込んだ。タイヤが地面を擦る音と共に車は後退し、男の腕は空を切った。男は地面に転げ落ち、彼の車はその場から離れようとする力強い振動を感じた。
彼はバックミラー越しに男の姿を確認し、何度か深呼吸をしながら必死にハンドルを握り締めた。車は濃い霧の中を進んでいき、霧はまるで彼を取り囲むように濃さを増していた。視界はほとんどゼロに近く、ヘッドライトの光さえも霧に吸い込まれて消えていくようだった。後方からはかすかな物音が聞こえ、それが男の追跡する足音なのではないかと彼の不安を煽った。まるでこの場所から逃れることができないかのような錯覚に襲われ、彼の心臓は不安と恐怖で激しく鼓動していた。
彼は道が狭く曲がりくねっていることを意識しながら速度を調整し、先へと進んでいった。ふと、頭の中に友人のことが蘇り、彼を見捨ててしまった自分に対する罪悪感が押し寄せてきた。その感情は胸を締め付け、彼の目に涙を浮かばせた。しかし、生き延びることが最優先であると心の中で言い聞かせ、何とか前へ進むことに集中し続けた。
霧はますます濃くなり、車のライトはほとんど役に立たなかった。彼は視界の中に見えるわずかな影を頼りに進み続けた。その途中でふと、遠くにまた鳥居が見えた。そこが出口であることを祈りながら、彼はその方向へと車を向けた。
鳥居をくぐると、彼の心に一瞬の安堵が訪れた。道は少しずつ広がり、霧も徐々に薄れてきた。彼は一度大きく息を吐き出し、アクセルを強く踏み込んでその場を離れた。
ようやく街の明かりが見え始めたとき、彼は自分が生きていることを実感し、涙が頬を伝った。友人を失ったことへの深い悲しみと、何とか生還できたことへの安堵が入り混じり、彼は感情を抑えきれなかった。
街に入ると、彼は安全な場所に車を停めてしばらくその場で泣いた。友人の無念を思うと、胸が張り裂けそうになったが、彼は生きるために前へ進む決意を新たにした。彼は心の中で友人に別れを告げ、再びエンジンをかけて、東京へと帰る道を選んだ。