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あの場所に立ったこと rw+2,119-0203

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子供のころ、父に連れられて山へ入ったことがある。

登山というほどのものではなく、集落の裏から延びる獣道を少し外れただけだった。父は何も言わず、ただ前を歩いていた。あの背中だけは、今でもはっきり覚えている。

木立が急に途切れた場所に、それはあった。
山の腹に穿たれたような空間に、池が横たわっていた。流れ込む川も、湧き出す音もない。ただ、水だけがそこに溜まっている。不自然なほど静かで、表面は磨いた金属のように周囲を映していた。風が吹くと木々は揺れるのに、水面だけが揺れなかった。

怖いとは思わなかった。ただ、息をひそめなければならない場所だと、体が先に理解していた。父は池を見下ろしたまま、長いこと動かなかった。声をかけていいのか分からず、私はその横に立っていただけだった。

それきり、池の話は誰にもしなかった。
成長するにつれ、その記憶は薄れていった。山に池があるなど、ありふれた話ではない。夢だったのだろうと、自分で納得させていた。

二十年以上経ち、父は亡くなった。
法事で久しぶりに地元へ戻った夜、酒の席で山の話題が出た。酔った勢いで、あの池のことを口にした。

「昔さ、あの山の途中に池があっただろ」

叔父は箸を止めた。
母は首を傾げ、兄は笑った。誰も覚えていなかった。冗談だと思われ、話題はすぐ別の方向へ流れた。私は笑ってやり過ごしたが、胸の奥に冷たいものが残った。

翌日、祭りの宵宮があり、詰所に顔を出した。懐かしい顔が集まり、酒が回り、昔話に花が咲いた。そこで、再び池の話をした。

最初は笑われた。
だが、一人がふと黙り込み、低い声で言った。

「ああ……あったな」

続いて、別の男も曖昧にうなずいた。
「毎年じゃなかった」「気づくと消えてた」
話はそれ以上広がらなかった。誰も詳しく語ろうとしない。ただ、確かに「見たことがある」という空気だけが残った。

帰り際、区長に酒を注いだとき、老人は杯を受け取りながら、こちらを見ずに言った。

「昔はな、行くなって言われた場所だ」

それだけだった。理由は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。

翌朝、祖母が家にいた。
朝食の席で、私は池の話をした。祖母はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

「知ってるよ」

それ以上は語らなかった。
私が「見に行こうと思う」と言うと、祖母は顔色を変えた。

「やめなさい」

強い口調だった。
理由を尋ねる前に、私は話を切り上げた。結局、誰にも告げず、一人で山へ向かった。

登山口は静まり返っていた。空は低く曇り、湿った空気がまとわりつく。道を進むにつれ、音が減っていく。鳥の声も、風の気配も、いつの間にか遠ざかっていた。

記憶の中の分岐点まで来たとき、足が止まった。
林の奥に、誰かが立っている気配があった。姿ははっきり見えない。ただ、こちらを見ているという感覚だけがあった。視線が皮膚を撫でるように、背中を冷やした。

私は引き返した。
池には辿り着かなかった。それでも、山を下りる間、背後から離れない気配があった。

その夜、夢を見た。

林の匂い。湿った土。目の前には池があり、水面は夜空を映している。父が隣に立っていた。言葉は交わさない。ただ、同じ方向を見ている。

ふと、水面に映る影が一つ多いことに気づいた。
振り返ろうとした瞬間、父が私の腕を掴んだ。強くはなかった。ただ、離さなかった。

目が覚めても、その感触が残っていた。

それ以来、夜になると窓の外に視線を感じる。
何かが立っているわけではない。見られているという確信だけがある。カーテンを閉めても、部屋の明かりを消しても、消えない。

池のことを考えない日はない。
もう現れなくてもいい。見に行かなくてもいい。
だが、あの場所に一度立ってしまったことは、なかったことにはならない。

父と並んで見た水面は、今も私の中にある。
そして私は、あのとき本当に「二人きり」だったのか、自信がない。

[出典:【遠州七不思議幻】突然現れる池]

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