あの家は、火事で一度焼けている。
公式には、そうなっている。
俺はその日のことを覚えていない。覚えているのは、匂いだけだ。焼け焦げた布団、甘ったるい羊水、そして焦げた髪。誰のものかは、考えないようにしてきた。
昨夜、テレビで産院の取り違え特集を見た。四十年育てられてから、血縁が違うと告げられた男の話だった。記者は「育ちがすべてではない」と言った。だが俺の中で開いたのは、育ちでも血でもない、もっと古い扉だった。
俺の名前は妖子という。戸籍は洋司だが、家では妖子だった。母がそう呼んだ。女の名前だと指摘したのは、外の人間だけだ。母は笑って、「この子は特別だから」と言った。
屋敷は裕福だった。大正期の洋館、黒光りする階段、赤い絨毯、曇らない窓。父は人脈で金を回す類の男で、母は血筋の話を好んだ。だが家の中は、どこか冷えていた。暖炉を焚いても、空気が温まらない。冬の朝、廊下に立つと、自分の足音だけがやけに大きく響いた。
十六の春、俺は出ていった。ある日を境に、両親の視線が変わったからだ。叱責ではない。確認するような目だった。触れれば壊れるものを見る目だ。俺は荷物をまとめ、猫にだけ別れを告げ、門を出た。
戻る気はなかった。だが先週、電話が来た。「お母様が倒れられた」と、女中の孫を名乗る女が言った。指が勝手に動き、気づけば電車に乗っていた。
屋敷は変わらない。鉄柵も、石段も、重い扉も。応接間で出された茶の匂いが、幼いころと同じだった。「おなかを温めましょう」と母が言った夜の匂いだ。
二階の寝室で、母は痩せていた。だが目は澄んでいた。
「妖子……やっぱり来たのね」
やっぱり、という響きが残った。
「ずっとね、あの子に許してほしかったの」
誰のことだと問う前に、母は目を閉じた。
その夜、女中に勧められた茶を飲んだ。懐かしい味だった。喉を通った瞬間、体が重くなった。視界が揺れ、床の模様が波打つ。まぶたが落ち、暗闇に沈んだ。
目覚めると、冷たい台の上だった。天井は白く、光は直線的で、匂いは消毒液だった。両手が固定されている。声が出ない。
隣に、もう一人いた。
同じ顔。だが髪は長く、頬の線が柔らかい。俺よりも、この家にふさわしい顔だった。
白衣の男が言った。「こっちが本物の妖子だ。処理するなら急げ」
処理、という単語が空気を切った。
女がこちらを見た。目に迷いはない。
「ごめんなさい。でも私は本物なの。あなたは、火事のときに生まれたの」
火事。甘い匂い。焦げた布団。
「お母様は、どうしても女の子が欲しかった。あの日、二人とも失ったから」
何を失ったのかは、誰も言わない。
注射器が近づいた。誰かが俺の額を撫でる。「もうすぐ終わるから」
その言葉のあと、記憶が切れている。
今、俺は地方の病院で働いている。名を変えた。鏡を見ると、顔はあのときと同じだ。だが誰も妖子とは呼ばない。
夜勤中、搬送されてくる患者の中に、時折、同じ顔を見る。ストレッチャーの上で、まぶたを閉じた女。カルテには別の名前が書かれている。
暗い部屋で、母の声を聞くことがある。
「いい子にしてたら、また……ね」
何がまたなのか、続きを言わない。
俺が本物かどうかは、もう問題ではない。問題は、あの屋敷がいまも焼けていないことだ。あの夜の匂いが、まだ鼻の奥に残っていることだ。
そして時々、消毒液の匂いに混じって、焦げた髪の匂いがする。
振り向くと、廊下の突き当たりに、赤い絨毯が敷かれている気がする。
俺はまだ、あの家から出ていないのかもしれない。
女は、たぶん、まだ笑っている。
焦げた匂いの中で。
[出典:444 :本当にあった恐い名無し:2005/05/24(火) 00:26:20 ID:6+2sKBzV0]