山間の寒村で聞いた話だ。
昼でも山影が落ちる集落では、箸を白米に立ててはならないという。
理由は誰も言わない。
ただ、
呼ぶな。
開くな。
触れるな。
その三つだけを、ゆっくり繰り返す。
数年前、都会から若い夫婦が越してきた。
古民家を改装し、井戸を塞がず、庭の杉を切り払い、風通しをよくした。
村は歓迎した。表向きは。
ある夕方、隣家の老婆が台所の窓越しに見た。
炊き立ての白米の上に、箸が真っ直ぐ立っていた。
それだけだ。
翌朝、夫婦の家の裏の崖下にある古い井戸の縁が濡れていた。
雨は降っていない。
足跡があったという者もいる。
なかったという者もいる。
誰も確かめに行かなかった。
その夜から、家の中で足音がしたらしい。
ぺた……
ぺた……
畳の上を、素足が歩くような音。
夫婦は村の年寄りに相談に来た。
「変なことが起きる」と。
その時、誰かが尋ねた。
「箸はどう置いた」
夫は答えなかった。
答えられなかったのか、覚えていなかったのか、
最初から立てていなかったのか。
三日後、妻は家の中で倒れていた。
目は開いていたが、何も見ていない。
ただ、天井の隅を見つめている。
そこに何かあったのかどうかは、
誰も知らない。
夫は家中の米を捨て、食器を壊し、井戸に板を打ちつけた。
引越しの朝、手伝いに入った若者が床の間で白米の丼を見つけた。
箸が立っていた。
黒ずんだ指のようなものが巻きついていた、と言う者もいる。
ただの煤だと言う者もいる。
その家は今も空き家だ。
夜になると、井戸の縁が濡れていることがある。
外へ向かう足跡がある夜もあれば、
家の中へ向かっている夜もある。
どちらが本当かは、誰も言わない。
男は最後にこう言った。
「箸はな、立てるから通るんじゃない」
それ以上は言わなかった。
それ以来、白米を見ると箸の向きを確かめるようになった。
横に置く。
それで済むと思っていた。
今夜。
ひとり暮らしの部屋で、炊き立ての白飯を前にする。
箸は、確かに横に置いた。
自分で置いた。
ふと目を離した瞬間、蛍光灯がわずかに明滅する。
カタン、とどこかで何かが倒れる。
丼を見る。
箸は横のままだ。
ほっとする。
だが、足の裏が冷たい。
畳が、濡れている。
ぺた。
その音は、
あなたの背後から聞こえたはずだ。
丼の中の箸が、今どちらを向いているかは、
まだ確かめていない。
(了)