都内の住宅街に、かつて住んでいた三十代の男がいた。
話をしてくれたのは、彼のかつての同僚だったという男だ。
静かに酒を飲みながら、ふとこぼしたのがこの話だった。
土曜の夜だった。
翌日が休みとあって、気が緩んでいたのだろう。
その男、朝からパチンコに行き、五万円ほどスッてしまったらしい。
金が惜しいというよりは、「競馬の資金稼ぎ」のつもりだったのが仇となったらしい。
給料日まで一週間──打ちひしがれた気分で、居間のソファに寝転がり、テレビの音をぼんやりと聞いていた。
住んでいたのは古びた一軒家。両親から譲り受けたもので、今はひとりきりの生活だった。
壁紙の縁が黒ずんで、廊下の床板が湿って鳴るような家。
日が落ちると、家の空気はしっとりと重くなる。
二十二時を回った頃だった。
電話が鳴った。家電だった。
画面に映っていたバラエティ番組を無言で睨みながら、受話器を取る。
「佐藤さんのお宅ですか?」
女の声。知らない。
「違いますけど」
ガチャ。切る。
一分も経たないうちに、また鳴る。
今度は男の声で
「よしおだけど、たかし?」
「間違ってますよ」
少し苛立ちを感じつつも、もう一度電話を置く。
が、また鳴る。三度目だ。今度は妙に粘っこい声だった。
「あの~、田中さんのお宅じゃ?」
その瞬間、背中に嫌な汗が浮いたという。
何かがおかしいと、直感が警鐘を鳴らす。
イタズラか、それとも……。
「いい加減にしてくれます?」
そう言い放ち、受話器を乱暴に戻す。
叩きつけるように。
それでも鳴る。止まらない。
次に出たときには、怒鳴ってやろうと決めていた。
「いい加減にしろ、バカヤロー! しつこいと警察呼ぶぞ!」
すると、受話器の向こうで太い声が低く笑った。
「警察?上等だ。うちから百万円も借りて逃げられると思ってんのか?」
「え? な、何の話……」
「今から行くから待ってろ。簀巻きにして東京湾に沈めてやるよ」
そのまま切れた。
受話器を持ったまま、しばらく指が震えていた。
手から冷や汗が滴っていたらしい。
急に、体の芯から力が抜けて、その場にへたりこんだ。
何がどうなっているのか、理解できなかった。
だが、これがただの悪戯ではないという予感だけは、嫌に確信をもって胸に沈んでいたという。
数分後、チャイムが鳴った。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン……
執拗に、無慈悲に。
玄関のドアノブがガチャガチャと暴れ始めた。
鍵は掛かっていたが、金属が軋む音が異常なほど耳についた。
ドアを叩く音。拳骨のような鈍い打撃音。
そして、あの声。
「開けろコラ、いるんだろ?」
一人ではない。
「おい、お前、裏に回れ」
背後の窓まで包囲されている。
這うようにして和室の押し入れへ逃げ込んだという。
布団の陰に身を沈め、耳を塞いだ。
それでも、音は届く。
ドン、ドン、ドン!
手の平で耳を押さえ、うわ言のように呟く。
「ちがう……ちがう……ちがう……」
するとまた、電話が鳴った。
この家の、古い黒電話から。
《トゥルルー……トゥルルー……》
留守電が起動し、スピーカー越しに声が漏れた。
「もしもし、吉田だ」
「居るんだろ? 悪かったな」
「今、人は間違い電話を何度も受けると、どんな心理変化を起こすか、迷惑がらずに何回まで冷静に対応できるか、実験してたんだよ」
「そこで、悪いけど鈴木に協力してもらったってわけ。詳しくは月曜、学校で話すわ」
「じゃ」
音声が途切れる。
そして……
「おい、もういい。窓、割れ」
ガシャン!!
ガラスが砕け散る音。
悲鳴すら上げられなかったという。
そのまま意識が飛んだのか、記憶が抜けている。
この話をした男は、それっきり彼と連絡が取れなくなったらしい。
電話も、家も、そのまま残されていたそうだ。
ただ一つ、おかしなことがある。
彼のフルネームは「田村達也」。
“鈴木”では、なかった。
──そして、あの家の電話線は五年前に止められていたのだという。
[出典:676 間違い電話 2009/06/28(日) 00:08:33 ID:A2t2ly3iO]