土曜の夜だった。
その男は朝からパチンコに行き、五万円を失った。
競馬の資金にするはずだった金だ。
給料日まで一週間。
何も考えたくなくて、居間のソファに沈み、音だけ流れるテレビを見ていた。
古い一軒家だった。
両親から譲られ、今は一人で住んでいる。
夜になると、廊下の床板が湿った音を立てる。
家が、どこか内側から息をしているようだった。
二十二時過ぎ、電話が鳴った。
「佐藤さんのお宅ですか?」
「違います」
切る。
また鳴る。
「よしおだけど、たかし?」
「間違ってます」
また。
「あの……田中さんのお宅じゃ?」
受話器を持つ手が、わずかに止まった。
自分の苗字は違う。
なのに、なぜか否定するのが遅れた。
「違います」
言いながら、ほんの少しだけ、言い切れなかった気がした。
それでも電話は止まらない。
四度目。
「警察呼ぶぞ」と怒鳴った。
低い声が笑う。
「警察? うちから百万円も借りといてか?」
喉が鳴った。
借りた覚えはない。
だが、借りていないと証明するものもない。
「今から行く。待ってろ」
切れた。
家の空気が、急に狭くなった。
数分後、チャイムが鳴る。
ピンポーン。
一度だけ。
その一度が、やけに長く響いた。
ドアノブが揺れる。
「開けろ。田中」
否定しようとして、声が出なかった。
田中ではない。
だが、田中ではないと言い切れる理由を、うまく思い出せない。
電話が鳴る。
黒電話だ。
この家に引っ越してきたとき、回線は止めたはずだった。
それでも鳴っている。
受話器を取ると、雑音の向こうで誰かが息をしていた。
「……確認が取れました」
誰の声とも分からない。
「これで、こちらからも行けます」
外で、足音が増えた。
窓の外を誰かが横切る影。
玄関を叩く音。
「田中。出てこい」
違う、と言おうとした。
そのとき、背後で小さな声がした。
「達也」
自分の名前だ。
振り返る。
居間の電話が、もう一台置いてあった。
受話器が上がっている。
そこから、自分の声が聞こえていた。
「もしもし。間違い電話です」
外の音が止んだ。
静寂。
次の瞬間、玄関の向こうから低い声。
「間違いじゃなかったな」
ドアノブが、静かに回る音がした。
鍵は、かけたはずだった。
この話をした男は、今もあの家に住んでいるという。
ただし、電話番号は変わっていない。
そして最近、また間違い電話が増えたらしい。
最初は、こう聞かれるそうだ。
「そちら、あなたのお宅ですか?」
受話器の向こうで、誰かが息を潜めている。
いま、この番号にかけているのは、誰だろう。
[出典:676 間違い電話 2009/06/28(日) 00:08:33 ID:A2t2ly3iO]