夜明け前の街は、昼間とは別の顔をしている。
新聞配達を始めて半年ほど経った頃、俺はようやくその静けさに慣れ始めていた。エンジンを切った原付の横で新聞束を抱え、まだ眠っている住宅街を歩く。家々の窓は暗く、たまにカーテンの隙間からテレビの青白い光が漏れているだけだ。風の音と、自分の靴音だけがやけに大きく感じられる時間帯。
配達員の多くは黙々と仕事をする。だが、販売店に一人だけ例外がいた。八十に近い年齢のお爺ちゃんだ。腰は少し曲がっていたが、手足は驚くほどしっかりしていて、二十年近く同じ区域を配っているという古株だった。
そのお爺ちゃんは、よくホラ話をする人だった。
「このへん、昔は研究所があってな。夜中に宇宙人見たことあるぞ」
最初は笑って聞いていた。配達前の準備中や、戻ってきて帳簿をつける合間に、そんな話をぽつぽつと語る。誰も本気にしない。俺もその一人だった。ただ、話し相手がいない時間帯の仕事だから、つい耳を傾けてしまう。怖いというより、退屈しのぎだった。
ある日、そのお爺ちゃんが珍しく、冗談めいた口調をやめて言った。
「疲れたまま配るのは良くないぞ。考え事しながらもな」
事故の話だと思った。暗い道で転んだり、車に気づかなかったり。配達員なら誰でも一度は注意されることだ。
「そうですね」
そう返すと、お爺ちゃんは少し間を置いて、続けた。
「昨日な、いくら配っても終わらねえんだ」
いつものホラ話の始まりだと思った。だが、語り方が違った。声が低く、笑いが混じらない。
「同じところを何回も回ってる気がしてよ。でもな、気づいたら全部配ってて……時間も、いつもより早くてさ」
俺は一瞬、言葉に詰まった。配達をしていれば、感覚が狂うことはある。寝不足の日なんかは特にそうだ。
「不着がなかったなら、良かったじゃないですか」
自分でも驚くほど、軽い声だった。お爺ちゃんは曖昧にうなずいた。
「まあな……」
それきり、その話は終わった。
一週間ほどして、お爺ちゃんは配達を辞めた。連絡もなく、突然だった。二十年近く続けていた仕事を、何の挨拶もなく飛ぶ。専業に理由を聞いても、「分からない」としか言わない。配達の世界は人の出入りが激しい。辞めたと聞いても、普通は驚かない。
だが、俺は妙に引っかかった。夜明け前に交わす、あの他愛ない会話がなくなったのが、思った以上に寂しかった。
不思議だったのは、その後だ。
お爺ちゃんが配っていた区域だけ、誰も長続きしなかった。臨配が入っても、三か月もすれば辞める。専業ですら、そこを担当したがらない。理由を聞いても、皆口を閉ざす。
部数は多いが、極端というほどではない。販売店からも近い。俺の区域のほうが条件は厳しいくらいだ。それでも、なぜかそこだけ空く。
俺は自分の区域を黙々と配り続けた。他人の担当に口を出す余裕もなかったし、夜明け前の仕事では、余計なことを考えないほうが楽だった。
数年が経ち、俺も配達を辞めることになった。最後の出勤日、古株の専業と片付けをしていると、ふいにその話が出た。
「あの区域、あるだろ」
名前を出されただけで分かった。お爺ちゃんの区域だ。
「あそこな、配ってると、何故か終わらないんだよ」
淡々とした口調だった。俺は、胸の奥がひやりとするのを感じた。
「ああ、〇〇さんも、同じこと言ってましたよ」
そう返した瞬間、専業の表情が変わった。言葉を探すように口を開きかけて、すぐ閉じる。
「……もういい」
それ以上は、何も教えてくれなかった。
それから俺は配達の仕事を完全に辞めた。販売店とも疎遠になり、情報が入ることはなくなった。あのお爺ちゃんが今どうしているのかも分からない。
ただ、今でもたまに思い出す。
夜明け前、同じ家を何度も回っている感覚。配ったはずの新聞が、また腕に残っているような錯覚。配り終えた瞬間、妙に早い時間。
もし、あの区域で本当に「終わらない配達」が起きていたとしたら。
あのお爺ちゃんは、どこまで配ったのだろう。
そして、何を配り続けていたのだろう。
考え始めると、夜が明けるまで眠れなくなる。
[出典:398 :本当にあった怖い名無し:2018/06/23(土) 16:13:47.34 ID:b3QAZ4dr0.net]