もう十年ほど前の話になる。
けれど、あのカラオケ屋で働いていた三年間のことは、いまだ夢のようで、時々ふいに夜中、目が覚める。何かが戻ってきたような、あの場所から視線だけが追いかけてくるような、そんな感覚に囚われて。
当時、私はまだ二十歳そこそこ。フリーターとしてバイトを掛け持ちしていた。あのカラオケ屋は、住宅街の外れ、国道沿いにあるくたびれたビルの二階部分にあった。外観は昭和の終わりに建てられたような鉄骨剥き出しの安普請だったけれど、中に入ると妙に洒落ていて、無理して改装した感じが滲んでいた。
機材は新旧混在。JOYWAVEにBMB、そして当時出たばかりのライブDAMも置いてあったけれど、音響は割れてたし、マイクのハウリングは日常茶飯事。タッチパネルの反応もやけに鈍くて、客からのクレームも少なくなかった。
それでもその店、昼のフリータイムがやたら人気だった。近隣の専門学校生が群がるから、オープン直後には満室になることもあった。
ただ、一つだけ奇妙な点があった。
「お客様にはご案内しない部屋」があったのだ。
具体的には、二階の奥側にある十部屋近い区画。以前は通路がぐるりと回れる造りだったらしいのだが、私が入ったときには、その半分が鉄製の扉で閉じられていて、誰も立ち入ることができなかった。
表向きは「男子更衣室」があることになっていたが、実際には誰もそこで着替えていなかった。鍵はスタッフルームの壁に掛けられたまま、埃をかぶっていた。
そしてそのエリアから、なぜか頻繁にフロントへのコールがかかってくる。
呼び出し音が鳴り続けるので、仕方なく取ると、ノイズ混じりの無音が返ってくるだけ。声はしない。ただ、コール元の部屋番号だけが表示されていた。
「よくあるよー」
先輩は気怠そうに笑う。なにが「よくある」だ、と思いながらも、その空気に私も慣れていった。
一度だけ、本当におかしなものを見た。
午前十時、いつものように機材の立ち上げに二階へ上がったときのこと。部屋に入って電源を入れていると、奥の方からバタバタと足音が聞こえた。反射的に振り返ると、赤いTシャツを着た子供が通路の奥へ走り去っていくのが見えた。
見間違いではない。白いスニーカーのかかとがぴょんと跳ねて、金属の通路が震えていた。
一階へ戻り、フロントにいた先輩に尋ねた。
「誰か二階に案内しました?」
「してないよ。ていうか今日はまだお客さん来てない」
一階の部屋はガラガラだった。
……じゃあ、あの子供はなんだったんだろう。
それからの私、何度もその奥の区画を確認した。立ち上げのとき、トイレ掃除のとき、扉の前で耳を澄ませたり、床の埃を確かめたりもした。でも、人の気配は一切なかった。
それでも呼び出しは止まない。
ある日、変わり者の新店長が着任した。年齢は三十代半ば。無精ひげにサンダル履きの、ちょっと浮世離れした風貌だった。
初日の会議で、あの封鎖されたエリアの話題になったとき、店長はあっさり言った。
「ここ、祓っとこう」
バイト連中はみんな苦笑い。私も例に漏れず、「またか」と思っていた。だってそれまで何度も何かしら“対処”されてきた形跡があったのだ。盛り塩の跡とか、部屋の隅にお札が貼られていたりとか。
そして日曜の午後、神主と名乗る人物がやってきて、白装束に身を包み、太鼓と祝詞で店内を清めていった。
その間も、例の呼び出し音は止まなかった。
その日、私は初めて祓いの最中に部屋から飛び出してきたゴキブリの大群を見た。ソファの下、裂けた布地の隙間から、無数の黒い影がぶわっとあふれ出した。私が思わず悲鳴を上げると、神主がぽつりと漏らした。
「ここは……数が多いねえ」
何の数かは、聞かない方がよかったのかもしれない。
そういえば、毎週決まった時間に予約を入れてくる太った中年の女性がいた。二階の隅っこの部屋に、必ず痩せ型の若い男性を三人連れてくる。彼らはいつも無言で、縄のようなものを手首に巻かれていた。
店内に流れるDAMチャンネルの明るいBGMとは裏腹に、その部屋の扉はいつも異様に重く、そして時折、押しても開かない日があった。
私は三年間その店で働いた。そして最後の最後まで、あの二階の奥からの呼び出しは止まらなかった。
辞めるきっかけは、常連の中年客からのストーカー被害だった。直接の被害はなかったけれど、家の近くまでついてこられたとき、やっと自分の中で何かが決壊した。
先日、ふと思い立ってあの店を訪れてみた。
懐かしさと恐怖とが入り混じった気持ちで階段を上がると、驚いたことに、二階の閉鎖エリアがさらに広がっていた。
部屋の扉はベニヤ板で覆われ、釘で封がされていた。防音どころか“封じる”ことだけを目的にした雑な工事。案内されたスタッフに聞いても、「そのエリアは今は使えない」とだけ答えられた。
ただ、あの時と同じだった。微かに、呼び出しの音がしていた。
ひとつ、またひとつ。今はもう存在しない部屋から。
フロントの端末がチカチカと光り、私は背筋が凍るのを感じながら、それを無視して店を出た。
私は二度と、あの扉の奥には近づかない。
……なぜなら、最後に見た赤いTシャツの子供、あれが店の制服だったからだ。あの日私は確かに、鏡越しに自分の後ろを走り去る“誰か”を見たのだ。
赤い制服の、自分そっくりの背中を。
[出典:287 :本当にあった怖い名無し:2022/01/23(日) 00:25:22.61 ID:eEb15Y/40.net]