職場の同僚と居酒屋で飲んでたとき聞いた話。
十年以上前の年末、某県の小さなフェリー乗り場でのことだったという。空は分厚い雲に覆われ、風は海から吹き付け、髪の根元まで冷え込むような寒さだったそうだ。
フェリーの発着時間まで小一時間あったため、建物の外のベンチに座り、ぼんやりと灰色の海を眺めていたらしい。潮の匂いがやけに重く、まるで生臭い息を吐いているようだったと。
視線の端で、駐車場の軽四がふらついていた。縁石にタイヤをぶつけて切り返し、区画に入ったかと思えばすぐに出る。落ち着きなく周回を繰り返し、どこか壊れた玩具のように見えたという。
軽四はやがて、ゆっくりとフェリー乗り場の建物前へ転がるように近づいてきた。停車すると、中から出てきたのは痩せた中年の女だった。肌はやつれて白く、目だけが異様に大きかったそうだ。
その後ろから、小学校低学年くらいの女の子が二人。姉妹らしく、どちらも女の顔を見上げていた。母親なのだろう。女は何かぶつぶつ言いながら、自販機でジュースを買い与えていた。
「なんか、変だな」とは思ったが、それきり興味を失い、また海に目を戻した。
しばらくして、場違いにのんびりした雰囲気でパトカーが到着した。年老いた警官と、やけに若い制服姿の男が、フェリー乗り場にゆるゆると入っていった。どうせ歳末の見回りだろうと、高を括っていたという。
ふと背後から、タイヤがアスファルトをこする音が響いた。乾いた「キキーッ」という音に、つい反射的に振り返った。
あの軽四が、急発進していた。
まるで何かに引かれるように、海に向かって一直線。スローモーションのように前のめりに走り、岸壁から飛び込む瞬間には、何の叫び声も聞こえなかった。
海は静かだった。軽四は、尾を水面に出したまま、ぷかぷかと浮いていた。空気がまだ車内にあるということだろう。
駆け寄る声。誰かの「落ちたぞ!」という叫びで、居合わせた者たちが岸壁に集まってきた。
中にはフェリーの従業員たち、そして先程の若い警察官と年配の警官もいた。
誰もが立ち尽くしていた。軽四は徐々に沖へ流されながら、まるで海に引き込まれるように揺れていた。風も波も静かなのに、不思議と早く離れていくように見えたという。
やがて若い警察官が拳銃とベルトを脱ぎ、決意のように上着を地面に投げると、海へ飛び込んだ。水面がはねた。
泳ぎは得意ではなかったようだ。何度も頭を沈めながらも、力任せに水をかき分け、どうにか軽四のもとへたどり着いた。
警官が車体にしがみつき、リアウィンドウの上へよじ登る。その姿に、岸壁から拍手が起こった。だが、次の瞬間、奇妙なことが起きた。
車内を覗いた警官が、突然、窓に拳を打ちつけ始めたのだ。無言ではなかった。何かを叫んでいたが、波音に混ざって断片的にしか聞こえなかった。
「……はなし……やれ……巻き……入るな……」
叩き続ける拳から血が滲んでいた。ガラスは割れない。中に空気があるはずなのに、ドアも開かない。なのに車体は沈まない。どこか物理の理から外れているようだったという。
そのとき、沖合から一隻の漁船が猛スピードで接近してきた。
「助かった」と、誰もが思った。だが、それは早すぎた。
慌てた船が軽四にぶつかり、警官は海に投げ出され、同時に軽四は深く、早く、沈んでいった。海は車をのみこむように静かで、冷たく、まるでそれが当然であるかのようだった。
子どもたちの悲鳴は、誰にも聞こえなかった。
その後、警官は漁船に拾われ、岸まで戻された。手足は震え、立ち上がれず、地面に突っ伏したまま、大声で泣き出したという。
「……母親が……子どもを、離さなかった……子どもが泣きながら手を伸ばしてたのに……!」
その言葉が、場にいた誰もの胸を締めつけた。
誰かが「母親が正気じゃなかった」と呟いたが、誰も答えなかった。警官の言葉によれば、子どもたちは窓の向こうで泣いていたのに、母親は両腕で彼女たちを抱き締め、決して手を離さなかったのだという。
……その後、母親の名前や身元は明かされなかったそうだ。遺体も発見されなかった。
まるで海そのものが、彼女たちを欲したかのようだった、と同僚は酒のグラスを空けながら呟いた。
「今でも、あの場所では……雨の日の夜に、窓ガラスの内側から、小さな手が当たってるのが見えるって話があるらしいぞ」
そう言って、そいつは薄く笑った。
でもその笑みは、まるで寒さに耐えてるような、引きつったものだったという。
[出典:2008/05/08(木) 19:42:33 ID:mczy1heWO]