京急大師線に乗っていた日のことだ。
あれが現実だったのか、あるいはどこかで夢と混じったのか、今でも自分でも判断できない。
午前中のまだ眠気が残る時間帯だった。京急川崎から川崎大師までの短い区間、座席が空いていたので腰を落ち着けると、揺れに抗えずまぶたが重くなっていった。気づけば終点の小島新田まで乗り過ごしていた。
大師線は短い。だから終点に着けば折り返して京急川崎へ戻る。わざわざ降りる必要はないと考えていたが、車掌に「回送になるので降りてください」と促され、仕方なくホームに降りた。ベンチに腰を下ろし、スマホを取り出して時間をつぶした。
しかし、次の電車が来ない。
十数分おきにやって来るはずの列車は、三十分近く遅れていた。掲示板には定刻が表示されているのに、遅延の知らせもない。ホームには自分以外に人影がなかった。
気味が悪くなり、駅員に訊ねようと事務室へ向かった。だが中は無人だった。机や椅子はあるのに、人の気配はどこにもない。扉の隙間から差し込む光に、紙の端がわずかに揺れているだけだった。
「事故でもあったのか……」
そう思っても説明がつかない沈黙が、駅全体に広がっていた。待ちぼうけを食うのも嫌になり、歩いて川崎大師まで行くことにした。距離はさほどない。
小島新田駅前はもともと人通りが多い場所ではない。だがその日は異常なほど静まり返っていた。産業道路へ出ると、異変はさらに際立った。
車が一台も通っていない。
信号は規則正しく赤や青に切り替わっている。だが渡るべき車はどこにもない。普段ならトラックや乗用車がひっきりなしに行き交うはずの道路が、死んだ川のように乾いていた。
背筋が冷たくなる。
「誰もいない……?」
三十分ほど歩いた間、行き交う人影は一つもなく、道端の商店にも主人は現れない。ガラス戸の奥に積まれた商品はきちんと並んでいるのに、店主は消えてしまったようだった。
東門前駅、産業道路駅も通ったが、客はおろか駅員すらいない。
人が消えた街を歩いているのに、電線には風に揺れる旗があり、看板の文字もいつも通りだった。世界の表面だけは通常を装っている。
唯一救いだったのはスマホが正常に動作していたことだ。
暇つぶしに友人へラインを送ると、数秒で返事が返ってきた。冗談めかしたスタンプさえ届いた。つまり自分の通信だけは、この人のいない街と無関係に存在していたことになる。
それでも心細さは増すばかりだった。もしこのまま家へ帰れば、玄関を開けても中に誰もいないのではないか。そんな考えが頭を離れず、気づけば川崎大師へ足が向かっていた。
参道に入ると、さらに不安は強まった。飴を叩くリズムが響くはずの老舗も無人。のれんは風に揺れているのに、中には人がいない。
「助けてください……」
祈るような気持ちで本堂まで辿り着き、両手を合わせた。額に汗が滲んでいた。目を閉じた瞬間、自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
そして祈りを終え、振り返った。
そこには、人がいた。
ほんの数秒前まで砂漠のように空っぽだった境内に、参拝客がひしめいていた。子供のはしゃぐ声、線香を買う人、手を合わせる老人、どこかから漂う焼き団子の匂い。
あまりの落差に言葉を失った。足元の石畳まで現実感を取り戻したように見え、身体がふらついた。
「え? さっきまで……」
声にならない呟きが口から漏れた。振り向いた時の衝撃は、雷に打たれるような感覚に近かった。
そこから先は、何事もなかったかのように全てが通常通りだった。産業道路には車が流れ、人々は日常を送っていた。
家に着いてからも考えた。
あれは夢だったのか。幻覚だったのか。あるいは、知らないうちに別の層の世界に紛れ込んでいたのか。
どれでも構わない。はっきりしているのは、川崎大師に祈った直後に「戻れた」という事実だけだ。あのまま寄らずに家へ向かっていたら、自分は今どこにいるのか。想像するのも恐ろしい。
お大師様が手を差し伸べてくれたとしか思えない。
だからあれ以来、川崎大師を通るたびに必ず手を合わせるようにしている。
人の消えた街の静けさは、耳の奥にいまも残っている。あの無音の世界に、再び迷い込むことはもう二度とごめんだ。
[出典:36 :本当にあった怖い名無し:2019/09/07(土) 09:12:50.64 ID:+yoypliG0.net]