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鎧の音 r+4,139

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これは私自身、いまだに現実だったと信じきれない出来事だ。

けれど、確かにこの身に刻まれたことなので、言葉にして残しておこうと思う。

幼いころから、私は落ち着いて暮らすことができなかった。借金を背負ったわけでも、警察から逃げているわけでもないのに、私の両親はまるで夜逃げのように、荷物を最小限にまとめては、昼夜を問わず引っ越しを繰り返していたのだ。
何度も新しい家に移り住み、転校を繰り返し、友人をつくる暇もなく別れる日々。幼い私はただ、そういうものだと理解もせず受け入れていた。

ただ、ひとつだけ鮮明に覚えている。行く先々で両親が霊能者や除霊師に会いに行き、相談をしていたことだ。どの人物も険しい顔で首を振り、なかにはひどく怯えた様子で追い払う者さえいた。子ども心にも、普通ではないことが私たちに付きまとっていると感じていた。

引っ越しをやめるきっかけは、母の病だった。私が働ける年齢になり、母が心労で倒れたのだ。父はやつれた顔で「これ以上は無理だ」と言い、「母さんだけ奴らに渡すわけにはいかない」などと意味の分からない言葉を口にしていた。
子どものころから、何度も両親に「なぜ引っ越すのか」と問いただした。けれどそのたびに二人は口を閉ざし、母は時に狂ったように怒鳴り散らした。だから私は答えを知ることができなかった。
だが――母が倒れてから半年ほど経ったころ、ようやく私は理由を悟ることになる。

最初は気のせいだと思った。夜、布団に入って目を閉じると、どこからか「がしゃん、がしゃん」と重い金具を引きずるような音が聞こえてきたのだ。ひとつではない、複数の音。規則的に迫ってくるようで、日ごとに近づいてきているのが分かった。
そのことを父に打ち明けると、父は驚くでもなく、深くやつれた目で「そうか……お前だけ逃げてもいいんだぞ」と告げた。
その時、私は悟った。引っ越し続けていた理由。父と母が恐れていたもの。すべてが、この「音」と関係していたのだ。

私は父を見捨てて逃げることなどできなかった。一か所に留まる生活には帰る場所などなく、逃げる先も思い浮かばなかったから。私は父と共に在ろうと決めた。
そのころ母は暴れて看護師に怪我をさせるようになり、通常の病棟から精神病棟の奥深くへ移されていた。父は日ごとに痩せ、眼だけがぎらぎらと光り、何かに怯え続ける姿が常になった。家の中には、重苦しい空気が沈殿していた。

ある朝のことだ。いつもより多く、数えきれないほどの「がしゃん、がしゃん」という音が響いた。壁の中から、床下から、空気そのものが震えるように。父は突然立ち上がり、私に向かって「雪子! 逃げろ!」と叫んだ。
その瞬間、家の中いっぱいに音が充満し、まるで鎧武者の軍勢が押し寄せてきたかのように思えた。さらに、鉄と血が混じった匂いが鼻をつき、吐き気を催した。
私は父に追い出され、気づけばパジャマ姿のまま、サンダルを突っかけて始発の電車に飛び乗っていた。背後から響く音を振り払うように、ただ隣町へと逃げた。

寒さに震え、心細さに押しつぶされそうになりながら、灯りのついていた店にふらりと入った。財布も持たず、ただ逃げ場を求めるように。
不審に思った店員が話しかけてきた。中性的な顔立ちの人で、男か女か分からなかったが、柔らかい声で私を諭し、温かい飲み物を奢ってくれた。その温かさに涙がこみ上げそうになった。
「仕事が終わったら警察へ連れて行く」と店員は言ったが、私は首を振った。警察に訴えても、あの音も匂いも信じてもらえるはずがないからだ。

そのときだった。再び「がしゃん」という音が耳に届いた。私は立ち上がろうとしたが、店員の手が私の腕を掴んだ。驚いて顔を上げると、店員もまた驚愕の表情を浮かべていた。どうやら、彼にも同じ音が聞こえていたらしい。
これまで誰一人として共有できなかった音を、初めて他人と分かち合った。その事実に、恐怖と同時に奇妙な安堵を覚えた。

店員は「心当たりがある」と言い、私をある青年のもとへ案内した。青年は年下に見えるほど若いのに、落ち着いた雰囲気を纏っていた。私を見ると、にっこり笑って「今まで辛かったですね」と言った。その言葉に胸の堰が切れ、私は嗚咽を漏らした。
涙ながらに話を伝えると、青年は黙って頷き、店員に「塩」「水」「月」などの言葉を交えて指示を出した。店員は不満げに従いながらも、私を慰めるように明るい歌を口ずさんでいた。

処置が進んでいく間、私は何をしているのか分からなかった。ただ、空気がざわめき、最後の瞬間に、凄まじい血の匂いと、耳を裂くほどの鎧の音が押し寄せたのを覚えている。
気づけば処置は終わっていて、音も匂いも消えていた。私は慌てて家に電話をかけたが、繋がらなかった。
その後、店員は学校を休んでまで私に付き添ってくれた。二人で家へ戻ると、父の姿はなかった。
家の床には、びっしりと藁の履物の跡が残っていた。踏み場もないほどに。かすかに血の匂いも漂っていた。私は震えが止まらず、店員に支えられながら家中を探したが、父はどこにもいなかった。

それ以来、あの音も、血の匂いも、私には近づいてこない。母は暴れるのをやめ、通常病棟に移ることができた。うまくいけば年越しを家で迎えられると医師は言う。
父の行方はいまだ分からないままだ。だが、あの日以来、恐怖に怯えながら暮らすことはなくなった。
母が退院したら、あの店員と青年にきちんと礼を伝えたい。だが本心では分かっている。彼らが一体何をしたのか、あの跡が何を意味するのか、そして父がどこへ消えたのか――私には知る勇気がない。
けれどいつか母に尋ねようと思う。母なら、あの「音」の正体を知っているはずだから。

(了)

[出典:2006/12/03(日) 21:54:50 ID:h1Rdw5lx0]

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