前に体験したことを話すよ。
今となっては思い返すだけで胃の底が冷たくなるんだけど、それでもどこかで言葉にしておかないと、ずっと引きずり続ける気がするんだ。
当時、俺は不動産の営業をやっていて、売却希望の物件を買い取る手続きを進めていた。ありふれた二階建ての中古住宅で、築年数のわりに状態も良かった。外壁の色もまだ褪せきっていなかったし、床鳴りも少ない。これならリフォームを軽く入れればすぐ売れるな、と俺も同行していた業者も口を揃えて言ったくらいだった。
売却の理由は借金。ありふれた事情だ。首が回らなくなって手放す――そんな話は日常茶飯事で、俺も特に気に留めてはいなかった。
ただ、その家には一つだけ気味の悪い点があった。
二階の一番奥の部屋。物置として使っていたらしい薄暗い空間に、黒いキャリーバッグがひとつだけ、ぽつんと置かれていたんだ。
それ以外に家具も荷物も何もない。まるで全てを運び出した後に、わざと一つだけ残したかのように、部屋の中央に置かれていた。その場に立った瞬間、喉の奥が乾いた。バッグ自体はよくある形なんだけど、持ち手や金具の光沢にいやに目を引くところがあって、安物じゃないとすぐに分かった。
俺も業者も無言でしばらく眺めてしまったんだ。そこだけ空気が少し違うように思えた。
契約上、残された荷物の処理は買い手側に委ねられる。処分するなり、勝手に持ち帰るなり。後でもめないための仕組みだ。だから現場に残された高価そうなものを業者がちゃっかり自分のものにすることは珍しくない。良いことじゃないけど、暗黙の了解みたいになっている。
同行していた解体業者の社長も、そのバッグを見て眉を上げた。
「これ、良いもんじゃないですかね。開けてみましょうか」
そう言ったときの声は妙に明るく、子どもが宝探しを見つけたみたいな響きがあった。俺は止めなかった。正直なところ、少しだけ興味があったのも事実だ。
だがバッグは頑丈に施錠されていた。鍵穴に差し込むべきキーが見当たらない。がちゃがちゃと何度か試してみたが、ぴくりとも動かなかった。社長は苦笑いして「持ち帰って工具で開けてみますよ」と言い、車のトランクに積み込んでいった。
その時点では、俺はただ「いい小遣い稼ぎになるだろうな」と軽く考えていた。だが夜になって、事態はおかしな方向へ転がっていく。
社長から電話があった。興奮気味に「これからバッグを開けるから、ついでに中身を報告しますよ」と言う。受話口からは工具を扱う金属音が響いていた。
しかし、それだけじゃなかった。電話越しに、奇妙な雑音が混じっていたんだ。
最初は電波のせいかと思った。けれど耳を澄ますと、それはまるで祭りの雑踏のようだった。わいわいと押し合いへし合いする群衆のざわめき。何十人、いや何百人もの人が一斉に笑い、叫び、歩き回っているような音。
「社長、誰か一緒にいるんですか?」と聞くと、彼は「いや、俺ひとりですよ」と答える。
それなのに、雑音はどんどん大きくなっていく。ガチャリ、ガチャリと鍵をこじ開ける音のたびに、ざわめきは膨らんで、まるで電話の向こうに人の波が押し寄せてきているように思えた。
そして、社長が「もう少しで開きますよ」と言った瞬間、そのざわめきが唐突に消えた。耳の奥がきん、と痛むほどの静けさが訪れた。
空気が凍った。次の瞬間、耳を劈くような笑い声が一斉に爆発したんだ。
それは人の笑い声だった。だが楽しげでも愉快でもなく、冷たくて、嘲るようで、耳元にまで迫ってくる。背筋がぞわりと泡立ち、俺は慌てて「それ、開けないほうがいいですよ!」と声を上げた。
言い終える前に、社長の声が割り込んだ。
「あ、開いた」
ぷつり。通話が切れた。
慌ててかけ直しても、もう繋がらなかった。呼び出し音すら鳴らず、無機質なガイダンスが繰り返されるばかり。胸がざわざわと波立ち、夜の間じゅう眠れなかった。
翌朝、職場に出ると、一本の電話が入った。発信者は社長の会社の職人だった。
「昨日から社長が戻ってないんですけど、どこか行ったの知りませんか?」
俺は喉の奥が詰まった。だが「知りません」と答えるしかなかった。昨日の出来事を話せば、正気を疑われるだけだ。
それから社長は行方不明になった。警察も探したらしいが、結局「蒸発」という扱いで終わった。家族も、社員たちも、何も掴めなかった。
残された黒いキャリーバッグはどうなったかというと、別の職人が他の廃棄物と一緒に処分したと言っていた。だがその言葉が本当かどうかは分からない。廃品回収の人間が目をつけて持ち帰った可能性だってある。
あのバッグの正体も、結局分からずじまいだ。ブランド名も記憶に残っていない。ただ、真っ黒で、異様にしっかりとした造りだったことだけは忘れられない。
以来、俺は施錠された鞄や箱を見ると背筋が凍る。中身を確かめたいという好奇心と、決して触れてはいけないという直感がせめぎ合う。
どうしても開かないキャリーバッグを見つけたら、君も覚えておいたほうがいい。中には、人間が想像できないものが詰まっているかもしれないんだ。
今でも、あの夜に電話越しに聞いた笑い声が耳から離れない。まるで俺自身も、あの群衆の中に混じる日を待たれているようで……眠るたびに夢の奥であの雑踏に押し流されそうになる。
あれは、まだ終わっていない気がする。
[出典:628 :本当にあった怖い名無し:2021/06/18(金) 10:52:56.44 ID:OJlPFISL0.net]