二階の奥の部屋に、ひとつだけ残っていた。
不動産営業をしていた頃の話だ。売却理由は借金。珍しくもない。築十数年の二階建てで、外壁も床もまだ使える。軽く手を入れれば十分に売れる。同行した業者も同じ見立てだった。
家の中はほとんど空だった。家具も家電も持ち出され、生活の痕跡だけが薄く残っている。だが、二階のいちばん奥、物置にしていたらしい六畳だけが妙に整っていた。中央に黒いキャリーバッグが置かれている。
ぽつんと、という言葉がいちばん近い。
壁際ではない。隅でもない。部屋の中央だ。まるでそこが定位置であるかのように、動かされた気配がない。
それ以外は何もない。埃すら不自然に薄い。持ち手と金具だけがかすかに光を返し、安物ではないと分かる。俺と解体業者の社長は、しばらく無言でそれを見ていた。
契約上、残置物は買主側の扱いになる。処分も持ち帰りも自由だ。現場で価値のありそうなものがあれば、業者が引き取ることも珍しくない。社長は笑って言った。
「これ、いいもんじゃないですかね。開けてみますか」
止めなかった。興味がなかったと言えば嘘になる。
だが、バッグは施錠されていた。鍵は見当たらない。何度試してもびくともしない。社長は「持ち帰って開けますよ」と言い、車に積んで帰った。
その晩、電話がかかってきた。
「いまから開けますよ。実況しますか」
受話器越しに金属をこじる音がする。だが、それに混じって別の音があった。
最初は雑音だと思った。だが違う。ざわめきだ。何人分か分からない。低い笑い、甲高い叫び、足音、衣擦れ。祭りのような、群衆の渦のような音が、電話の向こうで膨らんでいく。
「誰か一緒にいるんですか」
「いや、俺だけです」
社長の声は普段どおりだった。だが、ざわめきは大きくなる。工具が鍵穴をこじるたび、音が重なり、圧が増す。受話器が汗ばむ。
「もう少しで――」
その瞬間、音が消えた。
耳鳴りだけが残る、異様な無音。息を詰めたような空白。
次いで、笑い声が弾けた。
ひとつではない。重なり合い、押し寄せ、耳の内側をかき回す。楽しげでも愉快でもない。ただ、こちらを知っている笑いだった。
「開けないほうが――」
言い切る前に、社長が言った。
「あ、開いた」
通話が切れた。
かけ直しても繋がらない。呼び出し音も鳴らない。夜が異様に長かった。
翌朝、社長の会社から連絡が入った。帰っていないという。行き先も分からない。警察は動いたが、痕跡は何もなかった。蒸発という処理で終わった。
キャリーバッグは別の職人が廃棄したと聞いた。だが、誰が、どこで、どう処分したのか、確かな記録はない。
あの家はその後、売れた。新しい家族が入った。特に問題は起きていない。
ただ、引き渡し前の最終確認で、もう一度あの部屋に立ったときのことだ。
床の中央に、薄く四角い跡が残っていた。埃の色がわずかに違うだけの、痕跡とも呼べない痕跡。
その位置が、少しだけずれていた。
最初に見た場所より、ほんの数十センチ、扉側に寄っている。
誰も置き直していない。バッグはもうない。だが、跡だけが動いている。
いまでも施錠された鞄を見ると、目を逸らせない。開けたい衝動と、触れればこちらの居場所が知られるという確信が、同時に湧く。
あの夜、笑っていたのは中身ではない。
開けようとした側だ。
だから、どうしても開かないキャリーバッグを見つけたら、置き場所を覚えておけ。
次に見たとき、少しでも近づいていたら。
それは中身が出たのではない。
こちらが、向こうに寄ったということだ。
[出典:628 :本当にあった怖い名無し:2021/06/18(金) 10:52:56.44 ID:OJlPFISL0.net]