長編 定番・名作怖い話

コンビニの沙耶ちゃん・シリーズ【全話コンプリート/ゆっくり朗読】4400

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コンビニの沙耶ちゃん・シリーズ全話

223 :まこと ◆T4X5erZs1g:2008/08/01(金) 00:48:31 ID:lOTiqnxg0

(1)坊主の話

いまはもう三十代も後半に突入している俺ですが、二十代の終わりごろに、正規の仕事を辞めてフリーターしてた頃があったんだ。

夜のほうがいい金になるんで、コンビニの深夜アルバイトをしてたりしてね。

ある大手に勤めていた時のこと。

俺の入る二十三時からのシフトには、主に梶っていう体育大生と、沙耶っていう女子大生がいたんだ。

梶は、まあ鍛えてるだけあって見た目からごついヤツで、性格も陽気だった。

一方で沙耶ちゃんは、陰気ってわけじゃないが、無口で会話は弾まなかった。顔はめちゃめちゃ可愛かったんだけどね。

朝までの俺たちと違って、沙耶ちゃんは午前零時上がりだった。

近くに住んでるらしかったけど、なんとなく心配ではあった。

若い女の子だし。

梶もいつも「気をつけて帰れよ」って声かけてたな。

たしか、バイトを始めて半年ぐらいの頃だったと思う。

夕方のシフトのヤツが欠勤したとかで、俺にヘルプの要請が来たのよ。十七時から時まで。

梶と沙耶ちゃんはいつもどおりだったから、その日は沙耶ちゃんと同時に退勤することになったわけね。

一緒に店は出たんだけど、改めて『送ってくわ』ってのもなんか言いづらかったんで、彼女のあとをついて歩いたんだわ。

逆方向だったんだけど(笑)

ちょっと歩くと左手に公園、つか、グランドがある。

なんでか彼女、その敷地に入ってく。

入り口は一つしかないから、中を突っ切って近道するとも考えられないんだが。

グランドの一角に、トイレと雑草にまみれたブランコがあった。

『ああ、トイレか』と思って、グランドの入り口で立ち止まって待った。

だけど彼女、ブランコに行くんだ。

二つある右側に座って、なんつーか……アンニュイな雰囲気を漂わせてる。

思い切ってそばに行って聞いてみた。

「何してんの?帰らんの?」

そしたらさあ彼女、隣りのブランコを見ながら言うんだよ。

「この子と話をしてあげないと、淋しがって他の子どもを連れて行っちゃうから」

誰も乗ってないんだけどねえ、そのブランコ。

でもまあ俺も、『沙耶ちゃんって見える人だったんだな』ぐらいで納得した。

ほら、こんな板に来てるぐらいだから(笑)

面倒なんで、後は会話形式にさせてもらうな。

「何歳ぐらいの子どもよ?男?」

「小学五年生……って、何歳?男の子だよ」

「なんで死んだの?交通事故?」

「ううん……池に落ちたんだって……」

沙耶ちゃんの通訳によると、その坊主は母子家庭で、母親も夜遅くまで仕事だったようだ。

ある晩、一人で留守番をしてた坊主は、近所の沼にザリガニを取りに行こうと思いついた。

昼間にでかい蟇蛙をつかまえていたんで、エサにすればかなりの釣果が期待できるはずだった。

泥に足を取られて沈んだ坊主の体は、数日浮き上がることもできなかったらしい……

俺は思わず、空いているほうのブランコに向かって言った。

「ドジだなあ坊主(笑)」

すると右腕のあたりから、子ども特有の甲高い声が聞こえた。

「しね」

全身に鳥肌が立ったな。

沙耶ちゃんが慌てた様子で、俺の右腕にしがみついてきた。

そのまま公園の外に引っ張っていかれて、真剣に叱られたよ。

意外にいい人だね、彼女。

職なしでごく潰しの俺なんか、憑り殺されようが誰も悲しまないんだが(笑)

幸いというか、坊主は俺にも公園利用者にも何もしなかった。

沙耶ちゃんが言うには、それ以来姿が消えたらしい。

いまでもたまに花を供えてるのは、恥ずかしいから内緒な。

(2)香典泥棒

沙耶ちゃんがそういう子だと知ってから、思い出して合点が行ったことがある。

俺がコンビニでバイトを始めたばかりの頃、いつも午前零時を回ってから来る女の客があった。
格好と化粧から想像するにキャバクラ嬢。買う物は弁当とビールを一本。

コンビニって弁当を渡すときに、一緒に箸を渡すだろ?

最初は俺も当然のように、キャバ嬢の袋に割り箸を入れた。

そうしたら彼女、わざわざ「家に帰って食べるから要りません」って断るわけ。

エコなキャバ嬢だったね(笑)服の面積も最小限だったし(笑)

ある日、少し早い時間に彼女が現れた。

レジにいたのは沙耶ちゃんだった。

俺は商品の棚に張り付きながら、沙耶ちゃんが箸を断られるだろう様子を観察していた。
沙耶ちゃんは箸を入れた。なぜか二膳。

キャバ嬢は断らないんだ。

そのまま店を出て行く。

俺はキャバ嬢の後を目で追った。

彼女は駐車場の車の助手席に乗り込んだ。

「ああ、今日はデートかあ(笑)」

「そうらしいですね」

「箸二膳とは気を利かせたね」

「あの人がそうしてほしかったみたいなので」

そのときは、沙耶ちゃんの神経の細かさに感心しただけだった。

でも、今考えると妙だったんだよな。

沙耶ちゃんは、『彼女が普段一人で来ること』も、『箸にこだわっていること』も知らなかったはずなんだから。

長い余談で悪い。

ここからが本題。

グランドでの一件があってから、俺と沙耶ちゃん、それに事情を話した梶も含めて、俺たちはよく会話するようになった。

沙耶ちゃんが無口だったのは、見える自分と見えない俺たちとの、感覚の食い違いが怖かったからだ。

夜中のコンビニは、たまに緊急の用を足しに来るヤツがいる。

香典袋と黒い靴下なんてその典型。

そういう客が来ると、俺たちは沙耶ちゃんに「亡くなったの誰だと思う?」って、霊感試しみたいなことをやった。

悪趣味だったなあ(笑)

沙耶ちゃんは笑って答えなかったけどね。

でも一回だけ「わからない」って、はっきり答えたことがあったんだよ。

三十代中盤ぐらいの男だったかな。顔はもう忘れた。

黒靴下と黒いネクタイを買って行った客。

レジで対応しているときから、沙耶ちゃんの様子はなんとなくおかしかった。

落ち着きがないっていうか、客と視線を合わせようとしない。俺から見たら普通の客だったんだが。

沙耶ちゃんの困惑した様子に、俺と梶は俄然興味を惹かれちまった。

梶が客をそっと追っかけて、俺は沙耶ちゃんと留守番。

「お葬式に行くのに、あんなに何にも感じてない人って初めて……」と沙耶ちゃん。

梶は三十分ぐらいして戻ってきた。

「やばいわ、あれ」

「何?変質的なん?」

「つか……香典泥棒じゃ……」

「マジ?なんで?」

「途中で靴下履き替えてネクタイして、その先で通夜やってた家に入ろうとした」

すでに出入りの絶えていた喪中の家は、玄関を開け放してあったらしい。

あの客は少しためらったあと、門をくぐって玄関先に立った。

「で、どうしたのよ?」

「もちろん臨戦態勢でしょ(笑)お客さん落し物ですよって声かけてやった」

「おまえ、すげーな(笑)」

「(笑)飛び上がって驚いてたよ。そのまま逃がしちゃったけど」

「お手柄体育大生の称号を逃したなあ」

梶を持ち上げまくりながら、俺は沙耶ちゃんを横目で観察してた。

沙耶ちゃんは梶に憧憬のような視線を送りながら、話に聞き入ってた。

ちょっとだけムカついたね(笑)

ただな……ああいう霊感の強い人間っていうのは、やっぱり何かで苦労してるんだな。

話が終わったあと、沙耶ちゃんが梶に言ったんだ。

「ありがとう。いつもはわかってもどうすることもできないから、こんなふうに役立ててくれて嬉しい」って。

見えりゃ気にするわな。沙耶ちゃんのせいじゃないんだけどさ。

後になって聞いた話だけど、霊感って、都合のいいときだけ出し入れできるものじゃないんだって。

沙耶ちゃんにとっては、霊体までひっくるめて『個人』だったみたいだ。

祖父さんが守護霊でついてる孫娘は、男っぽく見えるし、軍人の家系は、本人がどんなに物腰が柔らかくても、高圧的に感じるらしい。

背後の霊に好かれたから、本人とはそれほど気が合わなくても、人間関係が上手く行くこともあったようだ。

そんなわけのわからない世界の中で、沙耶ちゃんが良識を保っていられたのは、彼女の人格がものすごく高次元のものだったからだと、俺は思ってる。

(3)ナマてるてる坊主

箪笥に、ばあさんが畳まれて入っていた。

かなり昔に読んだB級オカルトだが、意外に長いこと印象に残っている。

幽霊というのは、どんな形をして出てくるのだろう。

グロテスクな死体や、ありえない不気味な姿をしているのだろうか。

それなら沙耶ちゃんのような人間は、神経が参ってしまわないのか。

「ふつーですよ」

バックヤードの暗い照明でもわかるほど明るい笑顔で、沙耶ちゃんは答えた。

「気持ちの悪い霊は、見ないようにしていますから」

「へ?ってことは、見ないですむこともできるわけ?」と俺。

ちょっと前に彼女は、『自力で霊能力を出したり引っ込めたりはできない』と言っていたはずだ。

「んー……」

思案顔の沙耶ちゃんは、でも非常に的確な説明をしてくれた。

例えば、様子のおかしい人間がいるとする。そんなとき、他人は目を逸らせるだろ。

沙耶ちゃんの場合、やばそうな空気を感じると、うつむいて周囲を見ないようにするんだそうだ。

もしくは、反対の方向に目を向けるか。

直接見てしまわない限りは、頭の中にイメージが浮かんでこようが、声を聞こうが、それほど怖くはないらしい。

霊に負けてる霊能者ってのが、沙耶ちゃんらしくてちょっと笑えた。

そんな沙耶ちゃんが、不意打ちを食らったことがあった。

彼女が小学生のときに、登下校の道の途中に豪邸があったそうだ。同級生の家で、父親は医者。

ある夏の日、沙耶ちゃんは日の暮れかけた時間に、一人でその家の前を通ったんだ。

学校は集団下校を推奨していたが、人付き合いの苦手だった彼女は、あえて遅くまで学校に残ることが多かったらしい。

鮮やかな夕焼けが、逢魔の闇を隠していた。

「明るかったから気が緩んでたの」と、今の沙耶ちゃんが説明する。

前方から一台の外国車が走ってきた。

ハンドルは国産仕様にしてあるらしく、右側の運転席に実年の男が乗っている。

授業参観などで何度も見たことのある、豪邸の主の父親だった。

そして助手席には子ども……とも言えない、色あせた何かが乗っていた。

車が近づき、沙耶ちゃんの真横をかすめた。

助手席の物体が目の前に来た。

白に近いほど色の抜けたデニムのショートパンツ。

元は黄色と黒だっただろう、汚れた横じまのTシャツ。

ひょろっと背の高い、四年生ぐらいの少年。

助手席に膝立ちになり、頭を天井につけていた。

正確に言えば……首が骨ごと折れ曲がり、天井からヒモで吊り下げられていた。

車は沙耶ちゃんから離れると、不自然に蛇行した。

そしてすぐに、豪邸のブロック塀に突っ込んだ。

沙耶ちゃんは一連の光景をよく把握できないまま、車に駆け寄った。

運転席の父親は、フロントガラスに頭を打ってグッタリとしていた。

助手席の少年は折れた首をブルンブルンと振って、ヒモの呪縛から逃れようとしていた。
「事故のショックで泣いてたことにされちゃったけど」

野次馬が集まってきたとき、沙耶ちゃんは車のバンパー付近で、悲鳴をあげながら泣いていたそうだ。

「そりゃ……可哀相だったなあ」

現場を想像して同情すると、沙耶ちゃんはまた、バックヤードの暗い照明でもわかるほど明るい笑顔を見せた。

(4)親父の病気

沙耶ちゃんにいろんなものが見え始めたのは、小学生の高学年ぐらいだそうだ。

彼女の父親と母親は、次女である沙耶ちゃんにはあまり興味を抱かなかった。

家はそこそこ裕福だったようだが、沙耶ちゃんは食事をもらうのにも頭を下げるという、劣悪な環境に身を置いていたようだ。

ストレスのすべてをぶつけてくる親に対して、沙耶ちゃんは先回りして逃れる必要があった。

親の顔色をうかがい、金銭の制約を持ち出されないようにするために。

彼女に最初に芽生えたのは、霊を感じる能力ではなく、他人の心を読み取る感応力だった。

テレパスと言い換えたほうがわかりやすいか。

霊能力はオマケ。むしろ要らないと彼女は言っていた。

バイトで親しくなってから数ヶ月後、俺はプライベートでも沙耶ちゃんと会うようになっていた。

……と言っても、彼女が大学から帰ってくるときに、車を用意するだけの関係だったが……

俺が三〇を目前に控えたある日、沙耶ちゃんが真面目な口調で切り出した。

「まことさんって、ご家族に恵まれてないですよね?」

「まあ当たってる」

「……結婚は考えてないんですか?」

「相手いねーし(笑)」

内心、期待に弾けそうになりながらそう答えた。

いま考えると、馬鹿すぎ俺……

「探したほうがいいですよ。まことさんは、家族がなくなったらダメになる人だと思います」

「いや、いないことはないんだけどね(汗)」

『沙耶ちゃん、俺の家族にならない?』って言えっつーの俺……

俺の家族は、親父しかいなくなっていた。

母親は、俺が高校に入ったばかりのころに蒸発した。浮気相手と。

姉貴がいたが、なぜか母さんのことは棚に上げて、親父ばかり非難していた。

そして駆け落ちという形で、自らも家を出て行った。

俺には親父の非がわからなかった。子どもだったからかもしれない。いまもわからないけど。

親類でひしめく田舎の集落のことだ。俺の家庭のことはすぐに知れることになった。

同情が多数だったと思うが、若かった俺は、母や姉を恥部とすることが嫌で村を出た。

高校は卒業しなかった。

沙耶ちゃんを送り届けてから、なんとなく気になって親父に電話をした。

そういえば、電話すらここ何年もしていなかった。

親父は浮かれた様子で、俺の連絡を喜んだよ。

そして言った。

『今日な、医者に肝臓癌だと言われた。俺の顔を見られるのもあと一年だぞ』

余命をはるかに凌いで、二年後に親父は他界した。

俺は自宅アパートと故郷を飛行機で行ったり来たりして、自分が納得するまで親父の余生につき合った。

臨終の少し前、親父は言った。

「お前が電話して来なかったら、このときまでお前には知らせないつもりだった」

沙耶ちゃんには感謝してるよ。

もし彼女に再会することができたら、真っ先にこの話を伝えてやりたい。

彼女は自分の能力を含めた、存在自体を消したいと思っていたようだから。

梶が無事に三年に進級した。

留年してやがったから、知らせを聞くまで俺もなんとなくやきもきしてた。

お祝いに飲もうということになって、バイトが終わった朝からファミレスにしけこんだんだ。

俺も梶も、睡眠時間を削っても気にならない性質だったし。

「体育大って、単位取れなかったら潰し効かないんだろ?中退にならなくてよかったなあ」

「まことさんが言うと重みあるね(笑)さすが中卒」

「うるせえよ(笑)これで二年は安泰だろ。俺が徹夜仕事きつくなったら、店頼むな」

梶の大学は、三年生から四年生はエスカレーターになっているそうだ。

次は卒業をめざせばいいってことになる。

「えー?あの店治安が悪いから、夜中はひょろいの入れないんでしょ?まことさんの後が見つからなかったら、俺、当分一人?」

梶が不満に思うのも無理はない。店の場所は繁華街の外れで、夜中になると客層はひどく低レベルになる。

俺が採用されたのだって、武道の段持ちって理由なんだ。

「真面目な話、俺、バイトでつないでる余裕がなくなってきてんのよ。飛行機代稼がないと」

梶には親父の容態は伝えてあった。

「ああ、そっか……そろそろ定職持たないと、沙耶姫も可哀相だし(笑)」

なぜそっちに話を振るかなあ……

「沙耶ちゃんは関係ねーよ、馬鹿」

「『おやすみなさあい♪』の携帯メールが入るのにー?」

「……頼めばお前にも入れてくれるよ」

我ながら不機嫌な声で答える。

俺が沙耶ちゃんとプライベートで会うようになってから、一年以上が過ぎていた。

なのに俺は未だに、彼女の運転手としての域を出ていない。

なんつか……容姿的にも性格的にも彼女は完璧すぎて、俺には入り込む余地がないって感じで……

まあ、そんなことはいいんだよ!って俺が独りごちてる間に、梶のヤツが沙耶ちゃんに電話を入れていた。

「沙耶姫、ここに来るって(笑)」

……絶対に、よくやったとは言わねえぞ。

昨夜の時に別れた沙耶ちゃんはしっかり寝たようで、快活な二重まぶたの大きな瞳で俺たちを見つけた。

「朝から飲んでるんですかー?」と非難しながらも、自分も中ジョッキをオーダーする。梶と同じく大学生の沙耶ちゃんはいま春休み中。

プライベートでの接点が途絶えていただけに、思わぬボーナスだった。

馬鹿な話でさんざん盛り上がり、ファミレスを出たのは昼だった。

俺と梶は適当にセーブしていたので、店を出るころには素面に近かったが、沙耶ちゃんはかなり盛り上がってたね。

鼻歌を歌いながら、俺たちにまとわりついたりしてた。

「沙耶ちゃんって何杯飲んだっけ?」

「三杯ぐらいじゃない?」

梶とそんな会話をしながら笑って見ていると、ふと彼女が立ち止まって、何もいない空間に頭を下げた。

「ぶつかっちゃうとこだった」

肩をすくめながらそう言って駆け寄る沙耶ちゃんに、梶が「誰もいないし(笑)」と突っ込む。

それからも数度、彼女はいきなり立ち止まったり、不自然に避けるといったアクションを繰り返した。

そのたびに俺たちに、「いまって生きてる人じゃなかった……?」と確認して困惑する。
幽霊って、昼日中にそんなにいるもんなんだ?

まあ考えてみれば、いま生きてる人間より今まで死んだ人間のほうがずっと多いんだから、ありえるのか。

梶は沙耶ちゃんの妄想だと思い始めたようで、俺に「見えてる気になってるだけじゃないの?」と耳打ちしてきた。

すると、「違うよ」。

沙耶ちゃんはくるっとこちらを向いて答えた。

梶の声は沙耶ちゃんに聞こえる大きさじゃなかったんだが。

沙耶ちゃんはもともと色素の薄い子で、肌も白いし、髪の毛や瞳の色も日本人離れした紅茶色をしている。

でも、振り返った彼女の眼は、虹彩も瞳孔も区別がつかないぐらい真っ黒に塗られていた。

梶も俺と同じものを感じたのか、鳥肌の立った腕をさすっている。

「私には人と死人の区別がつかないの」

自嘲気味にうつむく彼女の顔が見る見る青くなって、道端に座り込んだ。

「吐きそう……」

でもな、酔った沙耶ちゃんを介抱しながら、なんか俺は嬉しかったね。

彼女にも隙があったことが。

(5)霊障1

初めに断っておきます。

俺の書く話は、筋は実話だけど設定はデフォルメしてある。

特にこの章はかなり狂わせてあるんで、似通った現場があったとしても別物。

だから、近場の人は気にせんでください。

沙耶ちゃんの大学生活もあと一年を切った初夏のことだ。

ゴボウのようにどす黒い顔とやせ細った親父の面倒を看ていたとき、彼女から電話があった。

『火傷ってすごく痛いんですね』

はあ???

他愛のない話だった。

今朝、独り暮らしの沙耶ちゃんが朝飯を作ろうとしたときに、蒸気で指を痛めたらしい。

むしろ『火傷って初めてしました』って彼女の言葉のほうが、俺にはビックリだったよ(笑)

火傷の痛みがわかったので、供養に行きたいところがある。

「車を出してほしい」

彼女はそう言った。

付き合いが長いんで、意味はすぐにわかる。

火傷が元で死んだ誰かの、残留したエネルギーを慰めたいんだな。

親父の所にいることを告げると、『わかってます』と言われた。

そして、『私もそのうちに、ご挨拶に伺っていいですか?』と付け足してくる。

二つ返事したのは言うまでもない。

親父の病室に戻ると、「お前もそういう歳になったか」と笑われた。

「孫の顔までは待ってられんが、結婚式ぐらいなら行ってやるぞ」とも。

一瞬、沙耶ちゃんが生霊でも飛ばして、挨拶に来たのかと思ったよ。

ま、電話の相手が女だと悟った親父の、冗談だったと今では思ってるけどね。

自宅アパートに戻った翌日、休日だったこともあって、さっそく沙耶ちゃんを乗せて早朝に出発した。

今回の目的地は、片道四時間はかかる山中のトンネル。

途中でメシ食ったり観光したりと、ちょっとしたデート気分を味わえた(笑)

沙耶ちゃんがそのトンネルを知ったのは、中学生のときらしい。

親父さんが主幹線と間違えて入った旧道の途中に、ぽっかりと孤独に口を開けていたそうだ。

「まだトンネルが見える前から、高い叫び声がずっと聞こえてたの……『いいいいいいいいいいい』って感じで、すごく険のある声」

沙耶ちゃんの透明感のある高音で真似されてもピンと来なかったが。

「見たくなくて、トンネルの中はうつむいてたんだけど、声だけは聞こえるでしょ……あのね……」

そこで言葉を切って、「あ、ごめんね。今から行くとこなのに、こんな話したら気味悪いよね?」と俺に確認。

「何をいまさら」と笑って返した。

安心したように彼女は続ける。

「トンネルの中には、男の人がいたみたい。んと……たぶん、まことさんよりも若い人。その人がトンネル中を走り回りながら、『熱い熱いっ』って叫んでるの……怖かったあ」

そんな場所になぜ自分から行くかなあ。

沙耶ちゃんに『浄霊行脚』の供を頼まれるようになってから、ずっと持っていた疑問は最近解けつつある。

彼女は『正しく使う』ことで、自分の能力を肯定したいんだ。きっと。

予備知識を避けるために沙耶ちゃんには言わなかったが、そのトンネルでは確かに焼身遺体が見つかっていた。

若年者同士の抗争で負けたグループの一人が、灯油をかけられて火達磨になってる。

換算すると、事件は沙耶ちゃんがトンネルを通った二、三年前ということになる。

霊も新しいほうが活性化しているっていうのが、俺の思い込み。

だから今回、十年以上経った古い霊体への対面は、期待ハズレかもしれないな。

夜に近いほうが視やすいだろうとゆっくり来たが、午後三時には問題のトンネルに着いてしまった。

「出直そうか?」と沙耶ちゃんに問うと、「えー。夜なんか怖いからイヤですよお」と文句を言われた。

何しに来たんだよ、まったく(笑)

左を下に激しく傾いている道路。

その上に垂直に立っているトンネルは入り口がいびつで、確かに不安定な感覚を覚える。

地元では心霊スポットとして有名なようだが、こういう三半規管を狂わす作りも関係しているのかもしれないな。

車を路肩に止めると、沙耶ちゃんは躊躇なく助手席から降り立った。

トンネルを囲む木々をぐるりと見回し、耳に軽く手を当てる。

「まだいるみたい」

振り返った彼女の瞳は真っ黒だった。

沙耶ちゃんの後ろについて、俺もトンネル内に足を入れた。

一応車道だ。

集中してる沙耶ちゃんが轢かれないように、注意していてやらないと。

沙耶ちゃんは重い闇とかすかな西日の留まる坑内をどんどん進み、中央部の巨大な落書きがされている左の壁に対面して止まった。

しゃがみこみ、歳月を思わせる黒ずんだ壁に指を這わせる。

何も感じない俺はせめて邪魔にならないように、彼女から五メートルぐらい離れて背を向けた。

持参した水筒の水を供えている音がする。

数日前、『火傷ってどうしたら治るんですか~?』と泣きそうな声で電話してきた沙耶ちゃんの様子を想像して、つい口元がほころんだ。

俺は霊を視る力はまったくないが、五感は少しだけ優れている。

だから、真後ろに突然現れた音が、人の駆け寄る音だっていうのもすぐにわかった。

半瞬遅れて沙耶ちゃんの悲鳴が上がる。

振り返ると、赤黒く爛れた頭頂部が見えた。

そいつは俺の背中から俺の中に進入してきた。

ものっすごい痛みが背中から心臓を刺し、俺は意識を持っていかれた。

背骨の折れる激痛と心臓が弾け飛ぶショックの断続に、死んだほうがましだと本気で思ったね。

意識は覚醒と撃沈を繰り返している。

のた打ち回るうちに、今度は別の不快感が顔面に競り上がってきた。

熱い。

頭を炎が覆ってる。

耳や目や口から入り込んで脳を焼いてる。

沙耶ちゃんの声が聞こえた。

言ってることはわからなかった。

でも『起きろ』と言われた気がしたんだ。

強引に上半身を起こすと、すでに炭化していた俺の頭が地面に落ちた。

……死んだのかな、俺。
もう熱くも痛くもない。

「出てってください!」

沙耶ちゃんが嗚咽交じりに叫んだ。

聞こえるってことは……まだ、俺、生きてる……の……か……?

目を開けると、頬の下にアスファルトの冷えた感触があった。

頭が落ちたと思ったのは、全身が倒れたってことか。

首だけ巡らせて振り返ると、沙耶ちゃんが俺の体から人型の炎の塊を引き抜こうとしていた。

火は沙耶ちゃんの両腕にも巻きつき、焦げた肉のにおいを誘っている。

沙耶ちゃんは目をきつく閉じて、この現象に惑わされないようにしているようだった。

焼死した霊は怒りの色なのか、全身を真っ赤に染めて抵抗している。

「もういいから手を離せっ!」

俺はかなりヤケクソで沙耶ちゃんに怒鳴った。

沙耶ちゃんは反射的に目を開いた。

そして……燃えてる自分の腕を見たんだろうね。

凍りついた表情で崩れ落ちた。

死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね

けたたましい呪詛の声がトンネル内に響く。

炎は大きくフラッシュしたあと霧散した。

沙耶ちゃんが助手席で目を覚ましたとき、車はトンネルのある峠を抜けて街へ向かっていた。

「腹減らない?早いけど晩飯にしようか」

俺はあえてさっきのことには触れなかった。

実際、エネルギーを消耗してものすごく空腹だったし。

「……おなか空いてます」

沙耶ちゃんも同意した。

市街地に入って一番のファミレスに入り、席を確保すると、緊張の糸がやっと解けた。

俺たちは意味不明に笑いあい、ため息をついた。

「あれが霊障ってヤツかあ……あんまりにも直接的だったんで驚いたよ」

「私も初めてです」

短く答えた沙耶ちゃんは、急に俺の隣りに位置を移してきた。

「今まで言えずに来たんですけど、やっぱり、まことさんには伝えておいたほうがいいと思う」

俺の左腕にまきつき、真剣に見上げる沙耶ちゃんの視線を、正直どう受け止めたらいいのかわからない。

ついヘラッと、「どんな告白でも歓迎だよ」といなしてしまった。

「それじゃあ」と彼女は話を続ける。

「生きてる人間は、全員って言っていいほど、密かに守ってくれる存在がいるものなの」

「うん。守護霊ってヤツだろ?」

別に目新しい情報でもない。

「そう」

沙耶ちゃんの瞳は微妙に暗褐色を帯びてきた。

「でも、ごくごくたまに、誰も憑いてくれていない人がいるの。それがまことさんと私なの」

なんとなく反論したくなった。

「でも、別に困ってない」

ガキだ、俺……

真面目に聞くと、沙耶ちゃんの話は大いに理解できた。

憎まれっ子世にはばかる、って諺があるだろ。

現実に他人に憎まれてるのに、なぜか本人はその自覚がなく、のうのうと世の中のいい位置を確保している、なんて例はたくさんある。

やつらがそこまで鈍くいられる理由、それが『守護霊の数(もしくは強さ)』なのだそうだ。

守護霊は憑いている人間を無条件で盛り上げる。

自分の宿り木である主が迷ったり悩んだりしては、自分たちの存続も危うくなるからだ。
守護霊に盛り立ててもらっている人間は、そこそこの努力で勝ち上がっていく。

逆に守護霊の力の弱い人間は、勝ち上がるために自分自身を高めていかなければならない。

途中で挫折することも多い。

俺たちが家族に恵まれなかったのは、(沙耶ちゃんに関しては後日説明する)
この法則で見れば当たり前のことだったんだ。

「守護霊というのは、本体の人がトラブルに見舞われたときに、ダメージを軽くしてくれるオブラートの役をするの」

「なるほど。じゃああの焼死した霊は、俺たち以外を襲ったら、あそこまでやりたい放題できなかったわけか(笑)」

「うん……」

沙耶ちゃんはうつむきながら、少し微笑んだようだった。

「だから私は普通の人みたいに、霊になんか惑わされない生活をするために、人助けをして、私自身の守護霊力を高めたいの」

『人助け』って言うのがピンとこなかったが、ちょっと考えたらわかった。

人=不成仏霊のことだったんだな。

あいつらは願ってることが単純なんだ。

痛みから解放されたいとか、食い物がほしいとか。

だから『助けやすい』。

そして、やつらが成仏すれば、そのぶんだけ沙耶ちゃんは格を上げることになる。

「私って、私のためにしか行動しないんだね」と自嘲する沙耶ちゃんに、「どっちの得にもなってるんだから、いいんじゃねーの(笑)」とフォローする俺は、間違ってないぞ。きっと。

「ありがとう。でもね」と、最悪のコラボを組み合わせて反論してきた沙耶ちゃん。

「私はもっと欲張りになってる。生きてる人も救って、私の徳にしたくなってる。そのために、まことさんを毎回連れ出してたの。私のそばで不浄霊を一緒に救ってもらえば、まことさんの徳も上がるから。それに……」

なんか……次の言葉は想像がついちゃってたんだけどね、俺。

「まことさんは、私と一緒にいるのが楽しそうだったから……まことさんに喜んでもらえたら、私、もっと早く人並みになれる気がする」

「沙耶ちゃんは……酷な人だねえ」

正直、かなり本気で凹んだ俺は、精一杯の皮肉を返した。

(6)霊障2

表面上は普通に話をしたが、内心かなり気まずい飯を終え、俺たちは店を出た。

午後六時。

山に囲まれた市街地はすでに夜と言っていい。

車に乗る前に沙耶ちゃんに聞いた。

「もう一回、トンネルに戻っていいかな?」

かなり深い意味を込めて。

沙耶ちゃんはしばらく地面を見ていたが、小さな声で「はい」と答えた。

俺は俺の中にくすぶっている怒りが、沙耶ちゃんへの未練だと認識していた。

俺の理想どおりの振る舞いと、期待を高めてくれる言動の数々。
愛しく思ってたからね。

それが『俺のためのパフォーマンスだった』と聞かされても、すぐには気持ちは冷めないわけだ。

『徳を積む』という考え方は、宗教がかっているとはいえ、真理を突いているような気がした。

善行を繰り返し、自分自身を善人として確信することができたなら、世間に溢れてる些細な悪意なんかに、惑わされることはないだろう。

沙耶ちゃんらしい『強さ』の求め方だと思う。

それなら、沙耶ちゃんはどこまで善意を貫けるのかな。

もし……もし、俺が彼女に予想外の不利益をもたらしたとしたら……

俺はこのとき、沙耶ちゃんの同意不同意関係なく、トンネルに着いたら彼女を襲うつもりだった。

山中のドライブは三十分ほどかかる。

助手席で足を畳んで小さくなっている沙耶ちゃんの気を紛らわすために、俺はトンネルで起こった事件の概要を説明し始めた。

「俺さ、フリーターになる前は、一応ちゃんと就職してたんだよね。ちょこっっっとマスコミ入ってる会社(笑)。そのときの知り合いに、あのトンネルの事故事件の過去録を聞いてみたわけ」

沙耶ちゃんは無言で顔を向ける。

「そしたら、やっぱり陰惨なリンチがあってさ」と、>>653で書いた内容をそのまま伝える。

「そういう目に遭ったヤツなら、祟るのも無理ないと思うよ」

「……燃やされただけじゃ……ないと思います……」

沙耶ちゃんの口調は、今までに聞いたことがないくらい重い。

「背中から何回も刺されてて……骨が折れてもやめてもらえなくて……もう死にたいって思ったときに、頭にだけ灯油をかけられて燃やされたの」

聞いてて心臓が痛くなった。

さっきの記憶が再現される。

「熱くて錯乱してたみたいです。火を消したくてトンネルの中を走り回って……目も見えないのに……」

沙耶ちゃんは続ける。

「頭だけが燃えてるってわからなかったから、壁に体をこすりつけてたんです。血だらけになった背中を……そしたら、皮膚がむけて壁に貼りついて……まだ血の跡が残ってました」

「水を供えてたのは、その現場だったんだ」

「はい……いろいろと教えてもらってました」

沙耶ちゃんは視線を遠くに移した。

トンネルに着いた……着いちまった。

とりあえずさっきの路肩に車を停め、エンジンを切った。

日中の暑さが嘘のように、夜気は冷え切っていた。

頭の中で何度も手順は繰り返した。

行使するタイミングを計る……

いやまあ、ふだんからそんなことばかり考えてたからさ(汗)

沙耶ちゃんはシートベルトを外したが、膝を抱えたまま動かなかった。

「車から出ないの?」と、半ば祈りながら聞いた。わずかに理性は残っていた。

「まことさんが気がすむまでこうしてます」

沙耶ちゃんの言葉が、ことさらに偽善的に聞こえた。

俺は彼女の肩を押さえつけてシートに倒し、唇を貪った。

沙耶ちゃんはかすかに呻いたが、抵抗はしなかった。

でも、薄い肩にはガチガチに力が入ってた。嫌がっている。

けれど止まらない。

この機会を逃したら次はない。ひどくせっぱつまった欲求が俺を支配していた。

救われたい。

委ねたい。

恐怖から逃れたい。

安らかになりたい。

俺の感情じゃねえよ、これ。

強引に身を起こして、沙耶ちゃんから離れた。

俺の中の何かが、彼女の上に戻ろうとして体を引っ張る。

慌てて運転席のヘッドレストをつかんだ。

沙耶ちゃんは泣きながら、「……やっぱりこういうのはヤダ」と言った。

俺は車から飛び出した。

落ち着くまでの間に、二台ほど車が通り過ぎた。

一台はガードレールに腰掛けた俺にビビって、反対側の山肌に突っ込みそうになっていた。

新たなスポット伝説の始まりかもな(笑)

対面に停めた車の中の沙耶ちゃんは顔を見せない。様子を見に行くこともできない。

だんだん腹が立ってきた。

なんで俺はこんな寒いとこで、当てもなく待たなきゃならないんだ?!

……いや、全部俺が筋立てしたんだけどさ……

『あいつ』はまだ俺の中に残ってるんだろうか。

どうしたら全部追い出すことができるかな……

成仏させればいなくなるのはわかってる。

だから、あいつになりきって考えないと。

何が未練なのか。

何をしたら満足して逝けるのか。

昼間の幻覚の中、あまりの苦痛に俺は『早く死にたい』と思ってた。

頭が焼け落ちたときは、恐怖よりも楽になれた喜びの方が大きかった。

だとすれば、もう死んでいるあいつに肉体的な苦痛はないってことか。

沙耶ちゃんを襲ったのはなぜだろう。

霊も欲求不満になるのか??……いや、違う。

真面目に考えろ。

『救われたい』『委ねたい』『恐怖から逃れたい』

激しい恐怖感と激烈な興奮状態が、最期のあいつには区別がつかなかったんじゃないか?

もう一つだけ思いつく浄化の方法がある。

俺は周りを見回した。

あいつがどこにいるのか知りたかったから。

でも、やっぱり俺には何も見えない。

仕方がないので、当てずっぽうの方向に向かって呼びかけた。

「カリノツヨシ、そのへんにいるのかい?」

あいつの名前だ。

……反応はない。

返事ぐらいしろよなあ。

尻のポケットに入れておいた手帳を繰って、ページを読み上げた。

「正犯フジタユウヤ。現在近くの八高市鍬形町在住。妻、子ども二人あり。
共同正犯タカミシンヤ。現在新屋敷市明徳町在住。妻、子ども一人あり。
同じく共同正犯……(略)」

俺なら、だよ。

俺なら、自分を殺したやつらがわかったら、こんなところで自縛してないで復讐に行く。

カリノが同じように考えるかはわからないけどね。

沙耶ちゃんが車から下りてきた。

「書いて残してあげてください。情報が多すぎ」

俺はトンネルの中に、スプレー缶が転がっているのを思い出した。

壁に大きく、犯罪者たちの名前を吹きつけてやる。

なんだか楽しかった。

さっきまでのイライラとした気分が、嘘みたいに消えてたよ。

(7)霊障3

車に戻って、少し思案する。

このままトンネルを抜けて走れば、自宅までの最短距離になる。

もしトンネルを避け、さっきの街まで戻って迂回すれば、一時間以上は遠回りになるはずだ。

「少しでも早く家に帰りたい?」

沙耶ちゃんにそう聞いた。

沙耶ちゃんはドア側に身を引きながら、「まだどこかに寄るんですか?」と不信感を顕わにしている。

質問の仕方が悪かったか。

「そうじゃなくて、このトンネルを通る勇気があるかどうかってことだよ」と説明を重ねると、彼女は「あの霊は怖くないけど、まことさんがまた変なふうになるのは怖い」と答えた。

謝罪以外に言葉が出ないよ。

「じゃあ、迂回するか」

エンジンをかける。

インパネのわずかな明かりに照らされた沙耶ちゃんの瞳の色は、ふだんの赤褐色に戻っていた。

二度切り返して、トンネルに背を向けて走り出してすぐ、沙耶ちゃんが「見えない」と呟いた。

「見えないって、何が?」

ハンドルを握りながらちらりと見ると、彼女は戸惑った表情でフロントの先に視線を彷徨わせている。

「何がって……何も……見えてたものが見えなくなってる」

そう言うと、座席の上で抱えていた膝に顔を埋めた。

「霊が見えなくなってるってこと?……んー、でも、そういう能力とは無縁になりたかったんじゃないの?」

俺は無神経に笑った。

「こんなに突然だと嬉しくないよ……まことさんにはわからないだろうけど」

チクッと嫌味を投げてくる沙耶ちゃん。

「いい機会だから、霊とか宗教とかって電波系に逃げてないで、まともな生活観念を持ちなよ」

なぜ俺は応戦してるんだろう。

「見えないものを否定するだけの人生って、楽でいいでしょうね」

だから、なぜ沙耶ちゃんと喧嘩になるんだ?

「楽じゃねーよ。こんな厄介な女に道連れにされてさあ」

「ずいぶんはりきってましたけど?当たり前ですよね。下心全開だったんですから」

「ばあか!三年も我慢してやったのに、いまさら焦るか」

俺……ひたすら自爆しまくる……

「じゃあ、さっさとそういうことして、さっさと愛想を尽かせてくれたらよかったじゃないですか!」

はあ?沙耶ちゃんの言うこともさっぱりわからなくなってるぞ。

「私は、その……男の人とああいうの、したくないんです……」

急にトーンダウンした沙耶ちゃん。

彼女の『本音』を聞き逃したくなくて、俺は再度、車を道端に停めた。

「きれいな感じがしないし……それに、私の求めるものとは正反対な気がして……」

反論はあったが、黙ってることにした。

間を置いて沙耶ちゃんは続ける。

「私、浄化のイメージが好きなんです。体っていう生っぽいものを捨てられそうだから。早くそういうところに行きたい」

「汚れた魂が昇天してくれるのは嬉しい」

「この世界には居場所がない。私には釣り合わない。好きになれる人もいない」

そこまで言って、沙耶ちゃんはドアのロックを外した。

俺はすぐにロックをかけ直し、彼女を押しとどめた。

「外には出るなよ。そっちは崖なんだ」

沙耶ちゃんは諦めたように、座席に身を沈めた。

朝が早かったせいか、猛烈な眠気に襲われた。

高速で帰ってる途中のことだ。

沙耶ちゃんはすでに寝息を立てている。

仮眠を取るつもりで入ったパーキングエリアは、車が極端に少なくて、なんとなく居心地が悪かった。

とりあえず車外に出て深呼吸をする。

そうだ、と思い至った。

時計を見ると一七時前。

まだ会社にいるな。

携帯からダイヤルすると、予想通り元の上司が出た。

トンネルについて教えてくれた相手だ。

「眠気覚ましに話に付き合ってください」と頼むと、向こうからも『歓迎だ』と返事が来た。

「今、例のトンネルに行ってきた帰りなんです」

『いい歳して、本当に肝試しなんかしてんのか(笑)で、なんか出たの?』
「出ましたよ。すっげえのが(笑)」

『マジ?男と女のどっち?』

?????女ってなんだよ?

「出たのはカリノですよ。先輩に聞いてたまんまの姿でした」

『そっちのほうかあ。やっぱり女のほうはガセなのかな』

「何の話ですか?」

『あれ?言わなかった?リンチ焼殺事件の二ヶ月前に、そのトンネルの付近で、カリノのオンナが行方不明になってるの』

「知らねー……詳細ください」

カリノには、一方的に想いを募らせていた相手がいたようだ。

名前まで聞かなかったが、二十代前半の女性だったらしい。

カリノは素行が悪く、地元では嫌われ者だった。

当然、女性もカリノには警戒していたという話だ。

彼女は突然姿を消した。

彼女の車だけがあのトンネル付近の峠道で、全焼という形で見つかった。

カリノは警察にマークされたが、証拠は見つからなかった。

カリノを殺したのは、ヤツのワル仲間だった。

正犯のフジタ以下数名は、捕まったあとにこう供述したようだ。

「カリノは追い回していたオンナを犯して殺し、山中に捨てた。車は焼いた。うすうすそれに気づいた俺たちは、カリノを同じ目に遭わせてやろうと思った。なぜかはわからない。誰も反対はしなかった」

『祟りだね』と上司は小気味よさそうに笑った。

『でも、本当のところはどうだか。オンナの遺体が見つからなかったから、警察は、カリノが腹いせに車だけ盗んで燃やした、って見解になったみたいだぜ。オンナはどこかに逃げたんだろう』

俺は窓越しに沙耶ちゃんを見ていた。

さっきのこの子は、本当に沙耶ちゃんだったのか……

『まあ、無事に帰ってこられて何よりだ。今度会社に顔出せ。話がある』

上司はそう言って電話を切った。

ややこしくて頭が飽和状態だ。

今日は、誰が誰にすり替わっていたのか……

俺は車に戻り、エンジンを始動させる気力もなく、座席を倒した。

まあいいや。今は寝てしまおう。

すべては明日、沙耶ちゃんの寝ぼけた顔を見てから考えよう。

(8)復職

『霊障』から一週間ほどして、先輩から催促の電話があった。

『顔出せっつっただろうが』

……忘れてた。

あんまり登場させたくないので、仮名だけつけておく。

逸見先輩は俺の五つ年上で、上司としてわがまま放題を俺に押しつけた人だった。

その頃、俺は社会の右も左もわからないガキだったから、事なかれ主義で逸見先輩に嫌々くっついてたんだが、同じ社にいた彼の反抗分子からも目をつけられて、結局退職するに到ったんだよ。

数年ぶりのボロい社屋を訪ねると、在社当時よりももっとメタボに傾いた逸見先輩が、重そうな腰を上げた。

俺は頭は下げたが、非好意的な表情をしていたと思う。

勧められた椅子を使うまでもなく、俺たちの交渉は決裂する。

「社に戻れ」

「戻りません」

アクの強すぎる人だから部下がいつかないんだろうなと、すぐにわかったからさ。

「働いてんの?」

「いま、職を探してる最中です」

「じゃあいいじゃねーか」

「よかないですよ。ここ以外で探します」

「嫌われたもんだなあ。電話までしてきておきながら」

アンタにしたんじゃねーよと心の中で毒づきながら、俺は黙ってた。

実際、ここに連絡を取った本当の目的は、復職への足がかりにしたかったからなんだ。

逸見先輩が健在と知ったら、その気はなくなったけどね。

「まあなんだ。正社員になるかどうかはともかく、外注としてこの仕事請けない?」

俺が固辞してたもんだから、先輩が折れてきた。

外注って発想はなかったなあ。

「どんな仕事ですか?俺、ブランク長いですよ」

「だから簡単なやつね。金久保町って知ってるかな?」

妙に丁寧な説明なのが気味悪かったが、俺は話を聞くことにした。

「知ってます。ぎりぎりで市内に入ってる僻地ですね」

俺の住んでいる市は、県内で一番の面積を誇っている。

でも、中心の駅のまわり以外は、ほとんどが田園か山林に組していた。

金久保町なんてのは、ちょっと前まで郡だったところだ。

「そうそう。突風被害に遭ったとこだ。その被災地が手つかずの状態で残されてるらしいから、ちょちょっと行って写真を撮ってきてくれ」

話を進めにくいのでバラすと、俺の元の職場っていうのは、フリーペーパーを扱っている弱小出版社なんだ。

市(近隣含む)の地域情報や広報を掲載して、読者をつかんでる。

こういう雑誌って、見たことあると思うけど、スポンサー広告がほとんどだろ?

俺のところは、大手のクライアントが一つ常駐していて、ペーパーの質を高めるために、プロのライターを派遣していた。

それが逸見先輩。

だからこの人は偉そうなんだよ……

先輩の言う突風被害っていうのは、新聞の地方版に載ってたから俺も知ってた。

傘が飛ぶとかテントが倒れるとかってレベルじゃなくて、山林が根こそぎ傾くほどの規模だったらしい。

なんで先輩が行かないんですか?と聞こうとしてやめた。

荒れて進入も難しい現場に、行く気がなくなったんだ。この人は。

「写真を撮ってこられるようなところなんでしょうね?地割れを飛び越えていけって言われても無理ですよ」

依頼者が逸見先輩なだけに、しつこく確認する。

「ぜーんぜん大丈夫。危ないと思ったら、そこで引き返しゃいい。地元情報誌としての面子が保てりゃいいんだ」

なるほど。それらしい写真が二、三枚掲載できればいいわけか。

「給料は?」

これも念押しすると、期待程度の額を提示してきた。

おし!

「やります。締めはいつですか?」と聞くと、しゃあしゃあとして答えるクソ逸見。

「今日の十八時校了だ。デジカメで撮って、ネット喫茶から送ってくれ」

はえーよ(汗)

時計を見ると十一時半。

現場到着まで二時間はかかる……なんとかなるか。

引き受けてから気がついた。

沙耶ちゃんを十二時に迎えに行く予定だったんだ……

現場は予想以上に惨々たる状態だった。

山というほどの奥地ではなく、村落から十分ほど入ったところの麓の林の中。

どう吹いたのかわからない。

嵐は中心部から放射線状に大木をなぎ倒していた。

重い固まりが落ちた跡みたいだ。

思わずミステリーサークルを思い出した。

沙耶ちゃんはいつものように、俺を待たずに先に歩き出した。

家に帰してから仕事に来ようと思っていたのに、目を輝かせてついてきたんだ。

「すごいエネルギーですね」

直径六〇センチはある木の折れた幹を見下ろしながら、沙耶ちゃんは呟いた。

「自然っていいなあ」

この光景を目の前にしての言葉とは違わないかそれ(笑)

地がめくれ上がって、何十本もの根が露出している場所で一枚撮る。

被害のない場所から、被災した上空も一枚。

鬱蒼とした林のその場所だけ、快晴の空が丸見えだった。

数十センチの穴がそこかしこに空いてるし、枝葉は上から降ってくるしで、あまり長居したい場所ではない。

残りの数枚を取ると、沙耶ちゃんの待っている倒木まで戻る。

彼女の上には光が降っていた。

きれいな栗色の髪と、細い肩と、そして紅茶色の瞳が、金色の日光に溶け込んでいた。

思わずシャッターを押すと、気づいた沙耶ちゃんは俺に笑顔を向けた。

「あ。お帰りなさい」

「退屈だったろ?」と聞くと、「いいえ。気持ちよく充電できました」と笑う。

「何か見てたの?」ともう一度聞くと、沙耶ちゃんももう一度とても明るい笑顔で、「今は見えません。まことさんといるときは、見えなくなりました」と答えた。

金久保町にはネット喫茶なんてもんはないんで、(というか、ネット環境が来ているかどうかも怪しい)すぐに幹線沿いの店に飛び込んだ。

メールの設定をし、撮ったばかりの画像をハードに流し込む。

さすが一千万万画素。

画質のクオリティは高い。

五枚ほど添付して送信した。

「はあ……終わったー……あの人の仕事はこれだから嫌なんだよ」

と愚痴ると、隣りでパソコンを覗き込んでいた沙耶ちゃんが、急に俺の胸に頭をすり寄せてきた。

驚いたが……なんとなく自然な気がした。

「余計なものが見えなくなった感想は?」の答えは、「幸せな気がします」だった。

沙耶ちゃんは俺に惚れてくれてる。

確信した。

彼女はいままで、『普通の人間であること』以上に頑張ろうとしていた。

だけど、そんなものは彼女を幸せにはしない。

等身大の女の子の沙耶ちゃんに俺は……今度は無理矢理ではなくキスをした。

携帯がメールを受信したんで、こっそりとポケットから取り出して開く。

逸見先輩からだった。

『タイトル「五枚目の写真はなんだ?」』

俺は笑いながら沙耶ちゃんに告げた。

「君の写真を送ったんだ。ついでにデートしましたって。たまには先輩を悔しがらせてやらないと(笑)」

メールを開く。

逸見先輩の本性が表れた文章で、こう書かれていた。

『ばかやろう。気味の悪いもん送ってくるんじゃねーよ!』

慌てて送信済みのメールを開くと、五枚目には、折れた大樹の横に、ぼんやりとした金色の人型の光が映っていただけだった。

被災地から戻る途中で、沙耶ちゃんをバイト先に下ろし、俺は会社に戻った。

逸見先輩は「もう用はない」と言ったが、さすがに画像を送りっぱなしで無関心にはなれない。

採用した写真とゲラ刷りを見せてもらって、勘を少し取り戻す。

そうそう。この工程が一番好きだったな。

それから、不採用の画像を消去してくれと頼んだ。

後で勝手に使われないための予防策だが、俺にそういう知恵がついていたことを先輩は嘲笑した。

五枚目の画像を処理しようとした逸見先輩の手が止まる。

「お前、この前の肝試しの後、ちゃんとお祓いに行ったのか?」

真面目な口調だったのでついウケた。

「逸見先輩から、そういう非現実的な言葉を聞くとは思いませんでしたよ。行かなきゃまずかったですかね」

「俺には関係ないから返事はできんな。お前が決めりゃいい」

自分から話振っといて、なんだよ……
逸見先輩は削除ボタンを押し、『異変』の痕跡を消し去った。

「また連絡する。俺の番号、着拒にするなよ」と皮肉る先輩。

そういえば、昔はそんなこともしたなあ。

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(9)妄想

バイトしているコンビニには、ふだん夜中に店長はいない。

俺がいい歳なので、店長代理並みに扱われてるからだ。

その信用をいいことに、俺は勤務を中抜けしては、沙耶ちゃんを送り届けるようになった。

もともと心配性ではあったが、それに加えて『大事な人』になったのだから、一時でも目を離したくなかったんだ。

「一緒に暮らしてーなあ」と呟いて、梶に「展開速いっすね」と笑われたこともしばしばだった。

六月の半ば、雨が落ちそうな夜だった。

いつものように沙耶ちゃんを送り届け、アパートの部屋に電気がついたのを見届けて、帰路に着いた。

彼女の家は店から十分ほどしか離れていない。

車を出すまでもないので、雨降り以外は徒歩で往来することにしている。

人気の絶えた歩道を進み、中間地点まで来ると、『坊主の話』で書いたグランドに出た。
坊主の気配はなかった……いや、あっても俺にはわからないか(笑)

トイレ横の街灯の光がわずかに届くブランコに魅入っていると、突然、背後から声をかけられた。

「お父さん、しにますよ」

ぎょっとして振り返ると、背の低い丸顔の巡査が俺を見上げていた。

病的に飛び出した眼球が血走っている。

「あなた、しにますか」

巡査の右手が腰に回ったのを見て、瞬間に(ヤバイ!)と身構えた。

詳しくはないが、拳銃をしまっておくホルスターを探しているのかと思ったんだ。

思わず巡査の右腕をつかんでひねると、ボキンと嫌な音がして腕がもげた。

中学の頃に習っていた柔道の道場で、やりすぎて相手の肩の関節を外しちまったことがあった。

感覚としては、その程度の力しか入れてなかったんだよ。

なにより、腕が取れるなんて考えられない事故だろ。

ちぎれた腕を握ったまま巡査の様子を見ると、体を丸めて「ぎぎぎぎ」と歯噛みを軋らせている。

「だ、大丈夫ですか?!」ととっさにアゴに手を入れて上向かせた。

舌を噛んだらしく、口の中が真っ赤に染まってる。

なんだよ、これは?

数日前からポケットに入れっぱなしだったハンカチをそいつの口に押し込みながら、俺は混乱を極めていた。

通り魔?俺は正当防衛?それとも傷害?

巡査は裏返った眼底を晒し、血を撒き散らしながら、言った。

「誰がしにますか」

そして、消えた。

どうやって店まで戻ったのか覚えていない。

蛍光灯が過剰に瞬く店内への扉がとても重かった。

レジにいた梶が「どうしたんですか?」と驚く。

俺は言葉もなく頭を振った。

疲れた……

「ごめん。休ませてくれ」

なんとかそれだけ伝えて、カウンター奥の申しわけ程度に作られた事務室の机に突っ伏した。

何も考えられない。

眠い。

すぐにうとうととしたと思う。

実際、連日バイトと逸見先輩の仕事で、疲労は限界だった。

悪い幻覚だって見るよ。

夢の中で無理にそう納得させる。

事務室の戸が開いた。

梶が来たんだ。

「何か用?」

顔も上げずにそう聞いた。

でも見えたのは、泥にまみれた子どもの足だった。

「忘れ物」

水の中から話しかけるような声で、坊主は俺の手に何かを握らせた。

冷たくて締まった筋肉の感触から、巡査の腕だって気がついた。

なんで俺に?何の悪意があって?

癌末期の親父の顔と、光に溶けた沙耶ちゃんの姿を思い出して、無性に淋しくなった。

 

(10)欠損

こうやって書いてみると、あの頃は意外なほどの密度で毎日が過ぎていたんだな。

話も長丁場になるので、スルーなりなんなりでやり過ごしてもらえたらありがたいです。
鬱な気分も少しでも眠れば回復できるようで、一時間後に目を覚ましたときには、巡査や坊主のことは、寝ぼけてたんだなと思うことができた。

店に戻り、サボったことを梶に詫びると、あいつはニヤニヤしながら耳打ちしてきた。

「衰弱するほどヤリまくっちゃダメっすよ(笑)」

アホ(汗)。

まだそこまで行ってないつーの。

客もいなかったので、そのまま色話にもつれ込んだ。

梶の『年上の彼女』との秘戯(笑)を聞き、俺の学生時代の初体験を脚色を交えて話す。

好みの顔やらフェチの話やらするうちに、つい元職場での恥部をばらしちまった。

「俺さ、出版社に正社員でいるころ、主婦に手ぇ出したことがある」

彼女の名前は由香さんと言った。

もちろん仮名。

俺が逸見先輩の下で働き出して三年ぐらい経ったときに、パート採用されてきた新婚の奥さんだ。

由香さんは妙に気の効く人で、俺が先輩に無茶を強いられて凹んでいたときに、こっそりと慰めてくれたりした。

俺は先輩に不信感を持つ一方で、由香さんを信頼するようになっていた。

ある年、忘年会で酔いつぶれた彼女を、一足先に送り届けろという命令をされた俺は、由香さんを自分の車に乗せた。

少し走らせると、由香さんが「気分が悪いから停めて」と言う。

すぐ先にあった寺社の駐車場に入って、「んん……」と声を上げる由香さんの背中をさすった。

「東堂くんはなんだかんだ言って、逸見さんと仲がいいのね」

喘ぎながらそんなことを言う由香さんに、俺は思いっきり首を振る。

「んなわけないですよ」

由香さんはかすかに笑って、いきなり体をねじり、俺のほうを向いた。

えっとね……俺は由香さんの背中に、手を置いていたわけなんだよ。

それがくるっと半回転してきたもんだから、つまり……胸のふくらみを握るような形になっちゃったのね。

彼女は体をのけぞらせて、すばやく反応した。

「それでそれで?」

梶が目を輝かせて聞いてくる(笑)

「色としてはそれで終わり。でも、そのあとの由香さんの台詞がちょっと怖かった」

思い出して苦笑しながら、俺は続けた。

お互い満足感に包まれながら服を着て、座席に寝転がった。

俺は軽い眠気を感じていたが、由香さんはそうでもなかったようだ。ずっと喋り続けていた。

「もし妊娠したら、夫とは別れないといけないよね。東堂くん、結婚してくれる?」

「あー……いいですよ。俺、由香さん好きですしね(笑)」

「ほんとに?でも私、東堂くんより年上だよ」

「無問題。歳とか関係ねーし」

俺にとっては、由香さんであることが重要だったわけで、その他の条件なんかどうでもよかったわけだ。

結婚してることさえもね。

「ありがとう。東堂くんは、私をとても好きでいてくれるのね」

由香さんは目を潤ませながら抱きついてきた。

「……じゃあ、約束して」と付け加える。

眠りかけている俺は、深く考えずに頷いた。

「もしね、私が離婚しなくて、夫とずっと暮らすとしたら、東堂くんは新しい恋人を作るよね?それはいいの。でも、その子には絶対に避妊はしないで。私以上に大事にしたりしないで」

「怖い女っすね」

梶が肩をすくめた。

「うん。実際にすごく毒のある人だった」と俺。

その後、由香さんは、これ見よがしに社内で俺に接触してきた。

体をすり合わせたり、たわいのない話を耳元で囁いたり。

噂が広がり、俺の立場が悪くなりかけた頃、逸見先輩がとどめをさしてきた。

「若年性ババアの抱き心地はどうだった?(笑)」

ふだんからの恨みが積もってたからね。思いっきりキレましたよ、俺。

逸見先輩を怒鳴りつけて、出社拒否に発展した。

その後、由香さんから電話が来た。

『やっとあいつに反抗したね。私、あいつ大っ嫌いなの。あーすっきりした』

逸見先輩に対する私怨的な内容だった。

彼女の目的はどこにあったんだろう。俺には今でもわからないや。

そんな思い出話でも、夕べの幻覚よりはだいぶ健全だったんで、退社する頃には気分はすっかり治っていた。

わざわざグランドまで行って、「変なモノ渡しに来るな、くそ坊主」と悪態をついてきたほどだったよ(笑)

自宅のアパートに帰って風呂を済ませると、疲労が頭のてっぺんまで回ってきた。

今日は出版社も沙耶ちゃんの学校も休みだ。夜のバイトまで寝てしまおう。

飯を食わずにベッドに倒れこむと、すぐに前後不覚になる。

何時間経った頃だろう。

台所から包丁でまな板を叩く音がした。

何かをリズミカルに刻む音。

沙耶ちゃんが来て料理をしているのかと思った。

ごくごくたまにだが、突然訪ねてきてそういうことをしてくれるときがある。

もっとも、沙耶ちゃんは俺よりも手つきが悪い(笑)

薄く目を開けると、台所との境のすりガラスには、たしかに女の立ち姿が映っていた。

「沙耶ちゃん?」

声をかける……が、返事がない。

それに……それに、映っている姿は、明らかに沙耶ちゃんとは違っていた。

もっと背が高くて髪が短い。

警戒しながら半身を起こすと、向こうも気づいたようだった。

すりガラスの戸を開け、顔を覗かせる。

……由香さん……だな。

かなり老けてはいるが。

なんでこの人がいるんだ?

「ねえ、約束覚えてる?」

締まりのない顔の由香さんが、へらへらと笑いながら聞く。

「私、ずっと監視してるからね」

また俺は幻覚を見てるのか?

由香さんは戸の陰から、俺のいる寝室(兼居間)に入ってきた。

俺は声帯まで金縛りにあっていて、声も出せなかった。

彼女は俺のそばに立つと、服を脱ぎ始めた。

色白だが、たるんだ肉に魅力は感じなかった。

「もし約束を破ったら」

由香さんは右手の包丁を頭上にかざした。

「これであなたたちの首を刎ねるから」

そして、真似事で俺の首に刃を当てる。

この人はいつもそうだ。

思わせぶりな言葉と脅迫を織り交ぜて、俺を支配しようとする。

瞬間に怒りが沸点に達した。

恐怖心を凌駕したおかげか、体が動く。

由香さんの手から包丁をひったくろうとして引っ張ると、また腕ごとちぎれた。

やっぱり由香さん本人じゃないみたいだ。幻覚なら遠慮は要らない。

俺は包丁を、側面から彼女の首に突き立てた。

スパッと切れるかと思ったが骨に当たって、首は半分つながったまま血を噴き出す。

由香さんは悲鳴とも嬌声ともつかない甲高い声を上げ、残っている左手で傷口を押さえた。

手が邪魔だな。

そうとしか思わなかった。

背中から突き飛ばして床に押さえ込むと、左腕を引っ張りながら肩に凶刃を叩き込む。

首とは違って簡単にバラせた。

じたばたと断末魔の動きを見せる脚を、右から順番に切り取る。

仰向けにし、腹を上下に分かれるまで刺した。

そして最後に、血泡を吹いている顔を堪能しながら、首を骨ごと素手で折れ取った。

もうこれで俺には近づかないだろ?いくら霊だって、またこんな目に遭いに来たりはしないだろ?

ある種の満足感を感じて、俺は再度ベッドに向かった。

気分は悪くない。

むしろ最高だ。

実際の人間じゃなかったのが残念なぐらいだ。

転がると、すぐ隣にある窓の外から坊主の顔が覗いていた。

乾いた泥のこびりついた口から、ごぼごぼという水音を発している。

死人なんていうのは、ちゃんと喋ることもできないのか。

惨めなもんだ。

「何が言いたい?」と聞いてやると、泥の固まりを吐き出したあと、坊主は言った。

「どこの部分にする?」

よく意味はわからなかった。

だから適当に答えた。

「胸」

「次は右腕と上半身以外だよ」

そんな意味のことを言って、坊主は消えた。

……まだあるのかよ……

(11)謎解き

それからさらに何時間経った頃だろう。

また台所から包丁でまな板を叩く音がした。

何かを不器用に刻む音……

沙耶ちゃんだ。

今度は間違いない。

俺はベッドの上に飛び起きたが……怖くて声をかけられなかった。

今度手にかけるのが沙耶ちゃんだったらと思うと、たとえ幻覚でもそれだけは嫌だ。

ためらっていると、沙耶ちゃんが気づいて台所から顔を覗かせた。

「起こしちゃいました?」

彼女の表情に異変がないところを見ると、惨劇の跡は視えないようだ。

……よかった。

彼女が能力を失くしていてくれて。

バイトの前に時間があったから、わざわざ来てくれたのだと言う。

時計を見ると、午後四時に差しかかっていた。

……ほんとに、一日中寝てたんだな俺。

オムライスを作れるようになった沙耶ちゃんを心の底から誉めてやって(笑)、一緒に食卓に着いた。

不思議なもんだ。

こうやって沙耶ちゃんを間近に見ていると、不安やイライラといった負の感情がなくなっていく。

逆か……ずっと沙耶ちゃんと一緒にいたおかげで、俺は自分が穏やかな人間だと勘違いしてたんだ。

さっきの由香さんの頚骨の感触を思い出して、暗澹たる気分になる。

俺の本性はたぶん、あっちのほうだ……

他愛のない話に夢中になっている沙耶ちゃんに相槌を打ちながら、俺は彼女と別れることを考えていた。

自分をコントロールできない今は、彼女を俺から引き離したい。

俺にとっては必要な人だけどね。

そう思うことはエゴだろ。

「沙耶ちゃん、少し距離を置こうか」

案外すんなり言葉にできた……本音はすっげえ悔しいんだけどね(笑)

だってさあ、俺、こういう関係を何年も待ってたんだぜ。

沙耶ちゃんは困った顔をして、それから怒った顔をして、最後に泣きそうになった。

「なんでですか?」

あ、理由を考えるの忘れてたな……

機転を利かせる能力のなかった俺は、けっきょく沙耶ちゃんに正直に話した。

怖がらせるか軽蔑されるかだと思ったが、沙耶ちゃんは真剣な表情で取り合ってくれた。
「まるで、人間のパズルを作ってるみたいですね」

そういう彼女に、「その言い方、軽すぎ(笑)」と訂正する。

俺にとっては、頭がおかしくなりそうなほどのショックなんだ。

沙耶ちゃんは申しわけなさそうに笑って、テレビの前に放置してあった広告を拾い、裏にメモりはじめた。

『右腕』『上半身』『左腕』『左足』『右足』『下半身』『頭』。

「なあ……」

彼女が拾い集めた人体のパーツが断定的だったので、不思議に思って聞いてみた。

「なんでその位置で切断なわけ?」

沙耶ちゃんは当たり前のように

「だって、バラバラにされた遺体だったら、普通はこういう切り方でしょう?」と答えた。

なんでそれに気づかなかったんだ。

俺って際限のない馬鹿かもしれない。

パソコンを開いて、検索窓にカリノがいたトンネル名と、『バラバラ遺体』と打ち込む。
出た。

一番目にヒットしたURLをクリックすると、2chのオカルトスレにつながった。

おいおい(笑)全然信用できない情報じゃないか。

ページを繰って、やっと事件概要を探し当てる。

もう数十年前のことらしい。

上半身と下半身も切断された白骨体。

ビンゴって感じだ。

沙耶ちゃんに確認してみる。

「あのトンネル、カリノ以外にも霊が視えた?」

沙耶ちゃんはあいまいに頷きながら、「数体が視えましたけど、どれも古くて消えかかってるって感じで……どんな人なのかもわかりませんでした」

と返事をする。

なんだか妙だな。

そんな弱い霊が、こんな激しい霊障を起こすもんなのか?

沙耶ちゃんが答えをくれた。

「ああ、それはまことさんのせいだと思います。カリノさんを浄化するときに、的確なことをしてあげたでしょ。それを見てた他の人が、自分もしてほしくなったんです。きっと」

……なんて他力本願なヤツなんだ……

「あと五つ残ってますけど……どうします?」と、沙耶ちゃんが残パーツ数を数えながら言った。

「パスパスっ!あんな幻覚はもうゴメンだよ」

俺は激しく首を振った。

「それで済むでしょうか」

不吉なことを言う沙耶ちゃんの意見は、たぶん正しい。

俺が集め終わるまでは、この白骨体は俺から離れていかない気がする。

「……いっそ、気に入らないヤツを五人ピックアップして、八つ裂きにするというのも手かな」

半分以上本気で言うと、沙耶ちゃんが引き攣りながら俺を見た。

「まことさんとケンカしたら殺されるかも」

俺は真面目に言った。

「そういうことを避けるために、今は俺のそばにはいないほうがいいよ」

沙耶ちゃんは軽く答えた。

「でもいます。別れるの、ヤダもん」

いい子だね、まったく(笑)

たかが妄想だ。

本当に人殺しするわけじゃない。

気持ちさえしっかり持っていれば問題ない。

俺は霊ってものを、まだまだ甘く見ていたんだ。

(12)除霊

翌週は何事もなく過ぎた。

俺としては、逸見先輩あたりの首をもぎ取ってやろうかと思ってたんだが(笑)悪夢の欠片も見なかった。

仕事の合間に白骨遺体のことを話すと、先輩は

「気持ちわりーな。寺行って来い、寺!」と、その筋で有名な大阪の寺まで調べてきた。

江戸時代から慰霊で名を馳せている、由緒のあるところだそうだ。

日曜日には休みをくれるというので、遊興も兼ねて行ってみることにする。

沙耶ちゃんに「一緒に行かない?」と電話をすると、

『……お寺ですか……あんまり勧めませんけど……」と、歯切れの悪い答えが返ってきた。

理由を聞く。

『除霊って好きじゃないんです。一方的に霊を追い出してしまうことなので。できれば、話し合って浄化してもらいたいんですけど……』

なるほど。

沙耶ちゃんらしい考え方だよ。

正直俺は、儀式でこの厄介な現象がなくなってくれるとは思わない。

ただ、祓ったから霊に勝てると、自信をつけたいだけなんだ。

そう説明すると、沙耶ちゃんはやっぱり乗り気ではないようだったが、『まことさん一人で行かせるのも心配なので』と承知してくれた。

鉄道を使うつもりだったので、ローカルな駅に車を置いて、新幹線の乗車駅行きの急行に乗った。

ふだん乗りつけないから、切符の買い方がわからなくなってたよ……

沙耶ちゃんも珍しい車窓の景色に目を輝かせていた。

「子どもの頃以来かも」だって。

今だって子どもみたいなもんだ(笑)

市を二つまたぎ、そろそろ都市圏に入ろうというところで、列車は小さな踏切を渡った。
遮断機の向こうで待つ通行人と車の列。

見知った顔があった。

「あれ、見覚えない?」と沙耶ちゃんに振ると、彼女は首をかしげた。

あ、そっか。

沙耶ちゃんは一度しか会ったことがなかったな。

三年前の春から夏にかけて、毎晩コンビニに来ていたキャバクラ嬢ふうの客だ。

今の格好は普通の主婦っぽかったが、激しく脱色した髪が名残をとどめている。

そっか。見なくなったと思ったら、こっちに移って来たんだな。

踏み切りが後ろに流れて見えなくなったタイミングで、前方に小さな駅が見えてきた。

この列車は停まらないはずだ。

駅に停車していた鈍行電車が動き始め、俺たちの横を対向して過ぎて行く。

いかにも地元という感じの利用者で賑わっていた。

平和な風景としか言いようがない。

大阪まで何しに行くんだか忘れそうになったよ。

でも俺たちの列車は、予定のない駅に緊急停車してしまった。

駅のけたたましいブザー音が、密閉された車内にまで飛び込んだ。

ドアが開かないので、乗客の数人が不安げに立ち上がって様子を窺っている。

駅員がホームを右往左往しているのが見えた。

怒鳴っている声までは聞こえない。

五分ほどしてから、この列車の車掌と思われる制服組が車両を回ってきた。

「ただいま踏切内で、人身事故が発生しました。ダイヤ調整のため、しばらく臨時停車いたします」

近くにいた五十代ぐらいのおっさんが車掌に噛みつく。

「なんで通り過ぎた踏切の事故で、この電車まで動かなくなるんだ?!」

その横の妻らしい厚化粧のばあさんも、したり顔で付け足す。

「事故なら前もあったけど、関係ない電車まで止めることはなかったわよ!早く出してよ!」

車掌は動じた様子もなく、「しばらくお待ちください」と言い残して、他の車両に移っていった。

俺のせいなんだろうか?根拠のない罪悪感が頭をもたげる。

俺のせいで、列車が止められたんだろうか?

俺のせいで、列車を止めるための事故が起きたんだろうか?

再出発が難しいというので、俺たちはバスに乗り換えることになった。

俺は……行かなかったよ。

バスまで止まると気の毒だからね。

駅のロータリー沿いに表通りに出ると、踏切の方向に向かった。

沙耶ちゃんが小走りでついてきて、俺の腕を取る。

「どこに行くんですか?」

どこって……どこに行こうとしてんだよ、俺?

「確かめないとね」とだけ言った。

誰が轢かれたのか。

死んだのか。

助かったのか。

踏み切りのそばでは警察がバリケードを張っていた。

現場はかなり遠いな。

轢いたと思われる鈍行電車の側面だけしか見えない。

野次馬の中から肌着姿の爺さんをつかまえて聞いてみた。

「どういう人が事故に遭ったんですか?」

爺さんはひどく同情した面持ちで答えた。

「妊婦さんが電車に飛び込んだらしいよ。まだ若いのにねえ」

沙耶ちゃんが小さく悲鳴を上げたので、爺さんから視線を移すと、二人の鑑識が、ビニールシートを警察車両に乗せているところだった。

「茶色の髪が見えた……」

沙耶ちゃんの呟く声が震えていた。

駅のベンチに腰かけながら、なぜか俺が沙耶ちゃんを落ち着かせる羽目になった。

「ああいう死に方した人、初めて見たから、ちょっと動揺しちゃって……ごめんなさい」

って言うけど、もっと壮絶なのに何回も会ってるじゃないか……(笑)

「同じ死人でも、やっぱり霊と死体とは違うの?」と質問すると、「私は不成仏な霊にはならないけど、死体にはなるから……自分がああいう姿になるのが怖い」と答えてきた。
そうだね。そのとおりだ。

肉体に傷がついて再生不可能になるってのは、こんなにも怖いことなんだ。

でも、その最悪な終末をキャバ嬢に取らせたのは、俺じゃないのか?

「俺がここを通らなければ、あいつ、死ななかったのかな……」

思わず口についた言葉。

「俺、すごく迷惑なヤツだ……」

「まことさんがどう関係するの?」

沙耶ちゃんは本気で不思議そうに言う。

「だからさ、除霊なんかに行こうとするから、こういう形で足止めされたってことだよ」

確信的に説明すると、沙耶ちゃんは珍しく理解力を示さなかった。

「全然つながりがわかりません」

慰めてんのかな?……慰めてるんだよな?……

ここでわかってもらわないと、俺、泣きつくこともできないんだけど…………

「あのね、よく考えて」

沙耶ちゃんが一言一言に力を込める。

「もしまことさんをお寺に行かせたくないだけなら、車を動かないようにすればいいじゃないですか。

霊って、電気系統を壊すのは得意なんですよ」

へえ。そうなんだ……オカルトで照明がいきなり切れたり、電源の抜けているラジオがついたりっていう、話を思い出した。

「なのに、わざわざまことさんの知ってる人を、家から連れ出して自殺させるなんて、そんなエネルギーの要ることすると思います?」

俺は首を横に振るしかない。

「だから、あの人が踏み切りに飛び込んだのは、あの人の意思です。まことさんには関係ありません。気にしちゃダメです」

……そっか。

俺はたまたま事故に巻き込まれただけなのか。

『お箸要らないです』と屈託のない笑顔で断ってたあの人が、妊娠中なんて幸せの絶頂期に自殺したのは、あの人自身の運命であって、俺には何の関係もないのか。

「無理」

俺はまた首を振った。

「そんなふうには思えない」

沙耶ちゃんはとっても困った顔をした。

「弱気になると憑りつかれちゃいますよお」

いっそ。

「そのほうが楽かもしれない」

沙耶ちゃんはうな垂れた。

「私はイヤです……」

憑りつかれるっていうのは、どういうことなのかわからないが、きっと、俺が俺でなくなるってことなんだろうなと思う。

俺は沙耶ちゃんの柔らかい猫っ毛を撫で回した。こういう愛情もわからなくなっちまうのかな。

もしこの後、何も起きずに事故処理がなされ、無事に自宅まで帰りつけたら、俺は沙耶ちゃんの『偶発説』を信じられたかもしれない。

でも残念ながら、俺のほうが正しかったみたいだ。

踏み切りのほうから、泥色の小学生が歩いてくるのがはっきりと見える。

坊主は何かを抱いていた。首か、足か、残りの腕か。

こんなガラクタ集めて、自分を再生して、成仏できると思ってる霊がいるのが笑えるね。

坊主は俺の膝の上に『それ』を置いた。

血まみれの生首のほうがまだマシだった。

胎児だったんだ。

臍の緒が長く長く伸びていて、線路上をさまよっている母親とつながっていた。

俺さ。

由香さんをあんな目に遭わせておいて言うのもなんだけど、子どもの死体はダメなんだよ。

沙耶ちゃんはすでに俺の視界にはいない。

見えるのは、血の海になった事故現場と、坊主と、不完全な形の胎児だけ。

「次は右腕と上半身と下半身以外だね」

俺がやつらの世界に近づいたぶんだけ、坊主の声がクリアに聞こえた。

「本物を提供するよ」

俺はためらいなく人間をバラせる環境が整ったことに、悦びを隠せなかった。

(13)整理

翌日、出版社に顔を出し、逸見先輩に経緯を説明した。

先輩は、「寺じゃなくて病院を紹介したほうがよかったか」と呆れた。

俺はノイローゼなんかじゃないんだが(笑)

「霊なんてものを信じるヤツは、みんなおかしい」と断言するクソ逸見。

実証してやるとばかりに、俺の体験を合理性で解読し始めた。

「まず、いいか?カリノを見た、なんてのはその典型だ。

お前は俺から事前に情報を得ていたんだから、具体的にカリノの焼死現場を妄想することは難しくなかったろ?

その証拠に、与えなかった情報については、何も見てこなかったじゃないか」

「見えはしなかったけど、カリノが入れあげてた女性の存在は、なんとなく感じましたよ」

「そのオンナは、生きてるか死んでるかもわからないんだぜ。もし生きてたら?お前の霊感とやらが、いかに似非か証明されることになるぞ(笑)」

相変わらず気に触る言い方で、カリノの件は一蹴されてしまった。

「それじゃあ白骨のヤツは?俺は、あのトンネルでバラバラ遺体が発見されてたことも知らないうちに、巡査や由香さんのパーツを集め始めたんですが」

「フラストレーションを発散させるのに、その手の妄想に浸るヤツは珍しくない。

お前は一見暴力とは無縁そうだが、内在してる嗜好まではわからんさ」

うーん……反論できないな……

「特に馬鹿女のほうは、昔の恨みでも引きずってたんだろ。コンビニの店員仲間と話題にしたことによって、リアルに悪感情を思い出したんじゃないのか?」

「そこまで激烈な恨みなんか持っていませんよ。ただ、生理的に受け付けなくなっているだけです」

母親と姉を軽蔑している俺は、男に対して誠実にふるまえない由香さんに対しても、同じような感情を抱いてしまうんだ。

「ま、あの馬鹿女は殺したって死なないから、せいぜいズリネタにでもしてやれ」

歯をむき出して笑うクソ逸見を、俺はまた怒鳴りつけそうになった。

「案外、巡査っていうのにも、心当たりがあったりしないか?」

逸見先輩の突っ込みに、俺は苦笑いしながら頭を掻いた。

「実は……と言っても、ガキのころのたわいのない話なんですが」

中学生のとき、俺はどちらかといえば悪ガキだった。

学校の備品盗んだり、連れを用水に突き落としたり。

田舎のノリの範疇だったけど、大人からは煙たがられてた。

ある日、学校からの帰り道に、警官の巡回に出くわした。

特に悪さはしていなかったと思うが、その巡査は俺のこと知ってたんだろうね。

「あんまりふざけたことしたら撃ち殺すぞ」って言って、本当に拳銃を構えてきたんだ。
まあいま思うと、これもある種のノリだったな。

思いっきり逃げた(笑)いい薬になったよ。

「お前が腕を引き抜いたのは、その巡査だったのか?」

「もっとガタイのいい人だった気がしますが、俺自身が中学から成長してますから。まあ、あんな感じだったかも」

結局、これも説明がついちまったようだ。

「じゃあ最後に昨日の件だが」

逸見先輩は、自分のPCのメールボックスを開きながら言った。

「お、来てる来てる。ちょうど俺んとこの顧客だったらしくってな。不審死なんで、担当者が事情を詰めてたとこだったんだ」

着信したメールには、『原田園恵の死亡原因について』とタイトルが入っていた。

先輩がクライアントからの出向だっていうのは前述したが、そのクライアントは生命保険会社なんだ。

大手の生保は自社で調査部署を持ってて、不自然な請求があると、徹底して調べることになってるらしい。

原田園恵は数年前に、先輩の会社の終身保険に加入していた。

特異な死に方ではあったが、メールには『いたって自然な理由による自殺』と書かれていた。

「自然な理由ってなんすか?腹に子どももいたっていうのに」

「マタニティブルーって知ってるか?俺の嫁もひどかったが、妊娠中はホルモンのバランスが崩れて、ウツになることがあるんだぜ」

「先輩の奥さんがウツになったのは、妊娠のせいじゃなくて……」

言い終わらないうちにスリッパが飛んできた。

「原田園恵にはその兆候が強かった。自殺してもおかしくないほどな。だから、『自然な自殺』と報告が来たんだろうよ」

……見事にこじつけられた。

数年前の俺だったら、逸見先輩の言葉を信じただろうな。

でも違うんだよ。

うまく説明できないけど、俺は妄想に浸ってるわけじゃないんだ。

だって、今までの霊現象のほとんどは、沙耶ちゃんも一緒に体験してるんだから。

沙耶ちゃんは信じる。

逸見先輩はあの世界を知らないだけだと思えちまう。

俺は反論をやめて、「あんまり気にしないようにしますわ」と、先輩をあしらった。

仕事が終わって、バイトまで時間があったので、不眠覚悟で沙耶ちゃんのアパートを訪ねた。

実は昨日、あの駅から帰ってきて居座った先は、彼女のアパートだったんだ。

意識のハッキリしなかった俺に、一晩中沙耶ちゃんが話しかけてくれたおかげで、こうやって日常に戻ってこれたってわけ。

あの子はもうすぐバイトに出るはずだ。

顔だけ見て自宅に帰ろう。

そう思ってインターホンを鳴らす。

……出ない。

留守か。

それとも、もうコンビニに行っちまったか。

まあ、いいや。どうせ後で会えるんだ。急ぐこともない。

水戸黄門が、なぜ一話完結にしてあるか知ってるか?

視聴者に年寄りが多くて、次週まで健在でいる保証がないから、って理由らしい。

俺はいま、連続投稿という形で話をぶつ切りにしている。

時間の制約があるから仕方がないんだが、でも、実はすごく心苦しい。

明日は保証されないからね。

後で会えるなんて、なぜこのとき思ったんだろう。

店まで十分の距離を歩いて沙耶ちゃんの姿を確認することを、なぜ惜しんでしまったんだろうか。

(14)親父の死

二時間ほど仮眠を取って、夜中のバイトの支度をしているところに電話が入った。

親父の面倒を看てもらっている叔母(母さんの妹)からだ。

『まことくん、お父さんの容態が急変したの。もう飛行機もないでしょうけど、できるだけ急いで来てあげて』

俺はすぐに、自家用車で空港まで向かった。

バイト先には途中で連絡を入れた。

まだ店にいた店長は快諾してくれた。

逸見先輩には、朝一の飛行機の時間を調べてもらった。

最近思うんだが、俺はなぜこの人をあんなに毛嫌いしていたんだろう。

空港に着いたが、最終便の出た後の国内線ロビーは、当然のように閑散としている。

駐車場に置いてきた車まで戻り、早朝までの充分な時間を睡眠に費やした。

なぜだろう。

気は焦るが、親が死ぬという絶望感はない。

きっと、親孝行ができたと実感しているからだ。

余命宣告より、ずっと長生きをしてくれた親父に感謝……

時を回って十五分ほどした頃、沙耶ちゃんの携帯の番号を押した。

『今日は送っていけなくてごめん。昨日はありがとう』と言うつもりだった。

でも彼女は出なかった。

数回のコール音の後、『ただいま電話に出ることができません』とアナウンスが流れ、通話が切れた。

ああ、まだ仕事中だったかな。

夜明けの陽の光で目が覚めた。

出発までは時間があったが空港内に行って、メシと洗面を済ませた。

大丈夫。

まだ親父は死んでいない。

確信があった。

叔母からの連絡もなかったし、夢枕にも立たなかったし(笑)

そういえば、例の悪夢みたいな幻覚も見なかったな。

このときばかりは白骨に感謝したよ。

飛行機に乗り込んで海を渡った。

そこからバスで一時間。

郷里の総合病院で、無事に生きてる親父と面会したよ。

父さんは自力呼吸もできないのに、酸素マスクを外して、『俺はお前に孝行してやった』というようなことを言った。

そして死んだ。

わけがわからず、湯灌の間に叔母に聞くと、「そんなことにこだわってたのか」と、笑いがこみあげるほど親父らしい考えを聞かされた。

「お父さんは、まことくんがお父さんより先に死んでしまうんじゃないかと、ずっと心配してたのよ。あなたが家を飛び出して音信不通になったときも、ずっと連絡が途切れていたときも。だから、お父さんが先に死んであげることが、まことくんへの孝行になったの。そうしたらまことくんは、賽の河原で石を積まなくても済むでしょう」

賽の河原っていうのは一般化してはいるが、仏教思想の一つだな。

親より先に死んだ子どもは、三途の川を渡れずに(転生の手続きができずに)、親が迎えに来るまで、延々と石を積まなくてはならないっていう、あれ。

親父が先に死んだから、俺はもういつ死んでもいいわけだ。

「なんで俺が死ぬなんて思ってたんだよ、あの人は?」

笑いながら叔母に聞くと、叔母は至って真面目な口調で言った。

「姉さん(俺の母親)が、そこまであんたたちの一家を追い込んだからよ」

そして謝られた。

「あんなのが身内で、ごめんね」

俺がその謝罪を受け入れるわけはない。

愚考に走った母さんが悪いのは確かだし、おそらく、知らず知らずのうちにその原因を作った、俺と親父が悪いのも納得できる。

でも、叔母は関係がないからね。

親父が歓迎されない病死(アルコール中毒を経ての肝臓癌)だったということと、喪主の俺が遠方から来ているということで、葬儀は内内で済ませることになった。

その夜、親戚だけの簡単な通夜をしていると、玄関が開いた。

読経の最中だったので目だけ上げると、母さんと姉さんがバツが悪そうに立っていた。

末席の叔母が二人を中に誘っている。

(ああ、声をかけておいてくれたのか)

少し苦々しく思いながらも、久しぶりの顔が元気そうなのに安心した。

式が終わり、親類連中は帰った。

叔母は俺と仏さんの番をすると言い張っていたが、一人のほうが気楽なので帰した。

母と姉は町に宿を取っているという。

ビールを開け、親父の棺の横でどうでもいいことに頭を巡らせた。

叔母の話によると、母さんは親父と結婚する前に、付き合っていた相手がいたらしい。

結婚してからも、感情的には切れていなかったんだろう。

気持ちの冷めている親父の世話をし、親父の子どもである俺を育てているうちに、現実から逃げ出したくなったのかな。

今ではその男と充実した生活を送っているはずだ……

ふと、沙耶ちゃんの言葉を思い出した。

『強力な守護霊に守られている人間は、努力しなくても人生が好転するの』

羨ましい限りだね、まったく。

イライラしてきた。

沙耶ちゃんの声が聞きたい。

携帯の番号を押すと、電源が入っていないとアナウンスされた。

そっか。バイト中だったな……

神経が昂ぶっていたが、それでもウツラウツラと眠れそうになってきた頃、玄関の戸が開いた。

挨拶のない訪問者を不審に思いながら出ると、母さんと姉さんと……泥だらけの子どもが立っていた……

「もうみんな帰った?ちょっと話があるんだけど」

母さんは通夜の恥じ入った態度とは正反対のふてぶてしい表情で、親父の安置された部屋に上がりこんでいく。

姉さんは俺と顔も合わせずに、母さんの後ろについている。

坊主は俺の隣りで止まって、そこだけ泥がはげた薄い唇を動かした。

「次は頭」

全身が緊張したよ。

そっか……そういうお膳立てなわけか……

冷静さを欠いちゃまずい。

深呼吸を繰り返しながら、自分に言い聞かせた。

母さんは親父の死に顔に興味も見せずに切り出した。

「この家とお父ちゃんの預金のこと、あんた聞いてる?」

知るか。

首を振る。

「妹(叔母)の話だと、お父ちゃん、全部あんたに遺すって遺言書いちゃってるらしいんだわ。でもね、あたしはともかく、同じ子どもなのに、お姉ちゃんに何ももらえないっていうのは、不公平すぎるからね」

と母。

……てか、ここまで強欲だと、母親扱いするのも抵抗があるわ……

「俺は遺言のことなんか知らないし、どうしようもないんだから、そんな話持ってくんな」

吐き捨てると、姉ちゃんが初めて口を開いた。

「相続を放棄してくれればいいのよ。そうしたら、母ちゃんに半分、私たちには四分の1ずつ配分されて、みんな公平になるじゃない」

母親は「お姉ちゃんにだけは遺産を渡して」と繰り返す。

姉は執拗に母親の権利を出張する。

なんかほんと……面倒……

「じゃあさ」

俺は自分の言葉に自覚のないまま言った。

「俺と姉さんがいなくなったらいいんじゃねーの?」

人間の首って、こんなに激しく脈打ってるもんなんだな。

姉さんの顔が紫に染まっていくのを見ながら、俺はさらに両手の力を込めた。

母さんは腰が抜けたみたいで、大声を上げることもせずに、親父の棺桶を狂ったように叩いている。

なんだか予想どおりすぎて拍子抜けだよ。

どうせ夢なんだろ、これ。

もう少し俺に不利な状況にしてもいいんじゃねーの?なあ、坊主。

姉さんが泡を吹き始めた。

そろそろ死ぬかな。

馬乗りになった俺が浮き上がるほどの抵抗をしてた体も、もうほとんど動かないし。

瞳孔が開いた。

あー……なんつーか……気分は悪くないんだけど、心残りがあるって感じだ……

沙耶ちゃんに連絡がついてたらなあ……俺、こんなことしなかったのに……

そう思った瞬間、こわばってた手から力が抜けた。

姉さんの喉に酸素が流れる感触が現れた。

まだ生きてる!よかった!

母さんに向かって叫んだ。

「誰かを呼んできてくれ!早く!!」

でも、母さんは動かない。

畜生!自分の娘の緊急事態だろーが!

自力で姉から離れようとしたんだが駄目だ。

脳が俺の意思を無視する。

また徐々に力が入ってきた。

腕が攣るほど抵抗してるんだけど負けてる。

いっそ、手が動かなくなれば……

見回すと、祭壇のでかい燭台が目に入った。

ロウソクを抜けば使える!

俺は自分の肩に思いっきり噛みついた。

痛みで我に返って、一瞬体が自由になった。

祭壇に飛びつき、火のついているロウソクをねじ取って、鋭い針をむき出しにする。

そして、親父の棺桶の上に置いた自分の左手に、思いっきり突きたてた。

母親の喚き声で集まった近所の親族が、救急車を呼んでくれた。

意識の朦朧としている姉を尻目に、運ばれたのは俺のほうだった(笑)

燭台が大きかったので、針は俺の掌を貫通して骨を砕いてた。

親指と人差し指は普通に動いたが、後の三本は再起不能かもしれない。

ま、どうでもいいや……

治療を終えて病室で横たわっているときに、夢を見たよ。

俺は体と右腕の再生した女の肉体を背負って、あのトンネルの脇に立っていた。

女は下に続く急勾配を指差している。

指示に従いながら、ゆっくりと下りてやった。

何かを探しているみたいだ。

女の指がさまよい始めた。

場所が特定できないのか。

「ううん。見たくないの」

意外に若い声で女は答えた。

すると、一〇メートルぐらい前方の薮が動いて、中から薄汚れた沙耶ちゃんが現れた。

「何やってんの、そんなとこで?」と笑いながら聞くと、沙耶ちゃんも笑いながら「先に来て探してたんですよお」と返す。

そして俺の背中に向かって、足元を指差しながら言った。

「ここでずっと待ってたんだよ」

沙耶ちゃんの足元には、幼児が眠っていた。

女を背中から下ろしてやると、右手で幼児の頭を撫で始める。

「子どもと一緒に殺されちゃったんだよね。可哀相だったね」

沙耶ちゃんも傍らにしゃがみこんで、同じように幼児を撫でる。

いつのまにか坊主が来ていて、母親の首に頭を取りつけた。

あれ?姉さんは生きてるはずだが?

母親は穏やかな表情で、子どもに頬ずりをした。

俺は坊主に言った。

「右腕だけじゃ子どもが抱けないから、俺の左腕をやれないかな?」

坊主は黙って母親を指差した。

母親は両腕で子どもを抱いていた。

そこで夢から覚めた。

医者が来て、俺の手は神経が寸断されてしまったので、元どおりには動かないだろうと説明した。

大きな病院でなら神経の縫合をしてもらうことができるかもしれない、とも慰められたが、俺は断った。

俺が持ってるより、あの母親にやったほうが何倍も役に立つ腕だったからね。

包帯だらけの手だったからか、翌日の葬儀には野暮なツッコミは入らなかった(笑)

親戚の何人かが、「あの馬鹿どもは、昨日のうちに追い出してやった」と報告してくれた。

田舎の団結力は頼もしいな(笑)

火葬場に移り、骨上げ(骨が焼けること)を待っているときに、焼き場の職員から呼び出された。

「とても申し上げにくいんですが……お父さんの頭のお骨が見当たらないんです。どうしましょうか?」

そっか。

親父が姉さんの代わりに首を提供してくれたのか……

親族には黙っておいてくれと頼んだ。

どうせ酒びたりだった親父の骨は、まともな原型を留めていなかったし。

すべての儀式を終えた後、俺は空港の待合室で久しぶりに携帯を取り出した。

驚いたよ。

四十件近い着信が入ってる。

そのうちの三十件以上を占めていた梶に電話をすると、ヤツは深刻そうに切り出した。

「沙耶ちゃんって、まことさんとそっちに行ってる?バイト、ずっと無断欠勤してるんだけど」

すぐに梶を切って、沙耶ちゃんにかけ直す……電源が入ってない。

最後に会ったのは、踏切事故の翌日の朝だ。

もう六日も経つ。

その間、電話は一度も通じなかった。

『先に来て探してたんですよ』

夢の中では、沙耶ちゃんはトンネルにいた。

事故?嫌な想像が頭をかすめた。

(15)沙耶の行方1

夕方に空港に到着。

沙耶ちゃんのアパートに直行した。

郵便受けには大量のチラシが入りっぱなしになってる。

インターホンを鳴らしたが返事はなかった。

電話は相変わらず電源が切れている。

勘弁してくれよ……

バイト先まで歩き、店長に帰ってきた挨拶と、沙耶ちゃんの欠勤の話を聞いた。

俺が親父の危篤を聞いた夜、沙耶ちゃんはすでに出勤していなかったらしい。

ただ、この日は連絡があった。

翌日の欠勤時、それまで真面目に働いていたこともあって、店長は自ら彼女のアパートへ
足を運んだんだ。

でも人のいる気配はなかった。

「女の子の独り暮らしだし、もしかしてと思ってね」

店長は沙耶ちゃんの実家にまで電話を入れた。

父親が出て、『存じません』とぶっきらぼうに切られたそうだ。

「こうまで長引くと心配だね。まこちゃん、沙耶ちゃんの実家に、もう一度連絡を入れてみてくれないかな。捜索願を出させたほうがいいかも」

と依頼されたので、「なんで店長がやらんの?」と聞くと、「僕はあのお父さんはどうも苦手で」と頭を掻いてた。

沙耶ちゃんの履歴書から電話番号をもらってプッシュすると、平日の夕方だからだろうか、父親ではなく母親らしき女性の応答があった。

警戒心を抱かれないように、できるだけ穏やかな声で伝えてみる。

「私は、沙耶さんにアルバイトに来てもらっている、コンビニの責任者ですが、沙耶さんがここ数日、連絡なしに欠勤されてるんです。もしかして、そちらに帰ってらっしゃるんでしょうか?」

逸見先輩が聞いたら、『小学校からやり直してこい』と言いそうな言葉遣いだな。

でも、母親らしい女性にはちゃんと通じたようだ。

あっさりと『こっちに帰ってますよ。ごめんなさいね。もうそちらには戻らないと思います』との返事をもらった。

なんだか釈然としない。

っていうのも、沙耶ちゃんは以前『実家に居場所がないから一人で出てきた』と言ってたんだ。

実は彼女は、父親とその浮気相手の子どもなんだよ。

だから正妻に目の敵にされて、実家にいられなくなったみたいなんだ。

そんな家に自主的に戻ったのか?それとも……

考えるだけ無駄なんで、店長に労いの意味でもらった今晩の休みを、沙耶ちゃんの実家行きに使うことにした。

少し田舎に下るとはいえ、見事に開拓された新興住宅地の中に、沙耶ちゃんの家はあった。

立派な門構えとその奥の広い庭が、裕福な暮らしを示している。

沙耶ちゃんの親父さんは、従業員数百人を抱える中小企業の副社長だ。

以前、興味本位に調べさせてもらった。

重役はすべて家族親類という典型的な同族会社の中で、唯一、身内外からその地位に上りつめた人だ。

女癖はともかく、まあ有能なんだろう。

沙耶ちゃんにお嬢さんな雰囲気があるのも、この家で育ったんなら納得できるな。

カメラつきのインターホンを鳴らすことをためらっていると、左手の路上から人の話し声が聞こえてきた。

年配の男と若い女の子の声。

「お父さん、今日は帰り遅いよ。家で待ってるのイヤなんだから、もっと早く帰ってきて」

と女の子……あれ?……

「これが普通の帰宅時間なんだぞ。今までは沙耶のために無理して帰ってたんだから」

と……沙耶ちゃんの父親らしき人物……

門に取り付けられた電灯が、二人の顔を照らし始めた。

向こうも俺に気づいたようだった。

俺は真っ先に沙耶ちゃんに飛びつきたい衝動を押さえ(笑)、父親に頭を下げる。

すると彼から声をかけてきた。

「君は?」

どの立場にするか少し思案してから、答えた。

「沙耶ちゃんの友人です」

沙耶ちゃんは父親の顔を見て、それから俺を見て、首をかしげた。

「わかんない。誰ですか?」

父親が、「事故で名前も家族のことも忘れましてね。たぶん元には戻らないと思います」と補足した。

(16)沙耶の行方2

いまさら解説するのも間抜けだか、一応説明をつけておく。

沙耶ちゃんの病名は『全生活史健忘』といって、自分に関する事柄をすべて忘れてしまう症状なのだそうだ。

社会的な通念や技術は覚えていることも多いため、生活には困っていないらしい。

実際、家に上げてもらってから、沙耶ちゃんがお茶を出してくれた仕草などは、昨日今日習ったという手際ではなかった。

記憶喪失というと=頭部損傷ってイメージがあった俺に、親父さんは主な原因は心因性だと教えてくれた。

つまり沙耶ちゃんは、過去を忘れてしまうほどのストレスを受けた、ということなのか。
「どこで?」の質問には答えてもらえなかった。

「どんな事故?」の質問にはやんわりと帰宅を促された。

食い下がることもできたが帰ることにしたよ。

沙耶ちゃんが無事でいることがわかっただけで収穫だしね。

門まで見送ってくれた彼女に手を振ると、なぜか泣きそうな顔になって「ごめんなさい」と謝られた。

それからの半年は、本当に忙しい時間を過ごしたと思う。

バイトはやめたが、本腰を入れた出版社の仕事(+いろいろとやらされたが(笑))のせいで、就労時間は変わらなかった。

わずかでも時間が取れれば、沙耶ちゃんの顔を見に行ったよ。

親父さんは警戒心バリバリだったけど、お袋さんはわりとすぐに打ち解けてくれた。

「こんなことを言うのはなんだけど、私は沙耶が病気になってくれてよかったと思ってるの」

印象に残ってるお袋さんの一言だ。

「あの子にはずいぶんひどいことをしてしまったから、恨んでるだろうなと、ずっと気にしてたんです。今は全部忘れて慕ってくれるので助かります」

その微妙な関係、俺にはよくわかるよ。

最低限の人間関係を維持しながら、俺がメインに時間を使っていたのは、事故の解明についてだった。

休日のたびに、心当たりのある場所や機関を回って情報をせがんだ。

あのトンネルのある市の警察や消防署の窓口。
救急病院の受付。

同業の地域情報誌発行元の会社まで回ったこともある。

結果わかったことは……日本の守秘義務を舐めちゃいけない、ということだけだった……
行く先々でたしなめられたよ。

原因なんて些細なことを今さら蒸し返すんじゃないって。

今、問題なく……むしろ以前より幸せに過ごしているんなら、それでいいんじゃないか、と。

そうかもしれんね。

たしかに、沙耶ちゃんは明るくなったよ。

いい意味で甘え上手にもなって、みんなに可愛がられてる。

復帰した大学でも、友人が増えたと喜んでいたし。

男がダントツに多いっていうのが気になるが(笑)

でもさ……じゃあ、以前の沙耶ちゃんはどこに行ったんだろう。

生真面目で不器用だったけど、彼女の本質はそれだったような気がするんだよな。

以前、出版社の仕事で、突風の被災地の写真を撮りに行ったことがあった。

えっと……ああ、『復職』で書いてるな。

そのときに沙耶ちゃんの写真を一枚撮ったんだが、彼女の周りに集まってた光だけが写ってて、沙耶ちゃん本体は写っていなかった。

今の沙耶ちゃんは、陰のない光みたいな存在だと思う。

だけどそこに、彼女の本体はいない気がしてしょうがないんだ……

珍しく逸見先輩だけが俺の行動を肯定してくれた……

というか、先輩の言によると、俺の行動が正しいとしか言えなくなるんだけどね(笑)

『全生活史健忘』は記憶が戻ってくることがほとんどらしい。

意志の力で封じ込めているようなものなので、傷が癒えれば自然に解放されるんだろう。
そのときに理解者が周囲にいないというのは、ものすごい悪影響になるそうだ。

沙耶ちゃんの今の状況を手放しで喜んでいる彼女の家族が、記憶の戻った沙耶ちゃんをちゃんと受け入れてやれるのか。

「顔も知らん俺でも心配になる」と、逸見先輩は初めて善人らしいことを言った。

先輩からモチベーションを維持する力をもらった俺は、あの日も例のトンネルの地区を管轄している駐在を訪ねた。

すっかり顔馴染みになった四十代の巡査部長が、奥の座敷に通してくれたときは、思わず『やたっ』と心の中で叫んだよ。

以下は、巡査部長とその後に訪れた市警の担当者の話を総合して書く。

半年前の六月の終わり頃のこと。

深夜にかかろうかという時刻に、交番を一組の親子連れが訪れた。

母親は小さな幼児を抱いていたらしい。

雨が降っていたので、二人ともずぶ濡れだったようだ。

巡査部長は二人をこの座敷に上げ、わけを聞いた。

母親は早口で「山中に若い女性が放置されている」という旨のことを告げた。

「地図を指し示して、場所まではっきりと教えた」と、巡査部長はその地図を広げながら語ってくれた。

眠っている幼児を抱えた母親を連れまわすのは気の毒だったので、彼は一人でパトロールに出かけたそうだ。

目的の場所は、トンネルから脇に逸れた林道の途中。

滅多に人の入るところではないので、ふだんは立ち入ることもない。

狭い林道をミニパトでとっつきまで走り、何もないのを確認して折り返す。

このとき巡査部長は、あの親子に騙されたと思った。

こんな道を徒歩で入る人間がいるわけがない、と。

サーチライトさえ吸い込まれそうな真っ暗な山道を慎重に進むと、前方に何か動くものが見えた。

それは左の木々の間に消えていった。

「あの親子連れに見えたから、驚いてな」

俺の前で巡査部長は鳥肌の立った腕をさすって、熱い茶を飲んだ。

彼は車を止めて後を追った。

薮が左右に分けられていて、確かに人の通った跡があった。

その先で沙耶ちゃんが見つかった。

全裸で、絞首の痕があって、仮死状態だったそうだ。

沙耶ちゃんは市内の総合病院に運ばれてから意識を取り戻した。

市警の女性警察官が彼女の担当になり、事情聴取をした。

前夜、トンネルから徒歩で帰ろうとしたところを、見知らぬ集団の車に押し込まれたこと。

その後に乱暴されたこと。

そこまで話して、沙耶ちゃんは別人になってしまったらしい。

何を聞いても「わかんない」「ありえない」を繰り返した。

「暴行は親告罪じゃないのよね……」

女性警察官はぼそっと言った。

犯人を捕まえれば無条件で起訴になる。

そして、沙耶ちゃんは証人として裁判所に呼び出される。

沙耶ちゃんの親父さんは、「捕まえなくていい」と即答したようだ。

帰り道。

運転しながら、いくつかの選択肢を描いた。

沙耶ちゃんが事件を思い出す→精神の崩壊の危機→そばにいないと。

沙耶ちゃんが事件を思い出す→意外に平気で乗り越える→微力ながらそばで応援。

沙耶ちゃんが事件を思い出さない→遠慮なくゲット。

……俺って、つくづく自分勝手な発想しかできないらしい……

(17)沙耶の行方3

その後のことは……まあ照れもあるし(笑)、あんまり詳細には書きたくない。

逸見先輩が「猪突猛進って言葉があるが、猪だってお前よりは考えて行動するだろうよ」と表現したとおり、俺はまったく周囲が見えてなかった。

勢いだけで求婚して、そして承諾をもらった。

同居を始めた初日の夜、ベッドの中で沙耶ちゃんが緊張していたので手を出しあぐねて、俺はソファで寝た。

お互いが寝ついた頃、ものすごい呻き声が聞こえたので電気をつけると、沙耶ちゃんが号泣しながら辺りを掻きむしっていた。

止めても止まらず、結局彼女は爪を二枚はがした。

翌日から通い始めた心療内科への通院は、何年も経った現在でも続いてる。

もっとも、今はほとんど症状はないけどね。

やっぱり、都合の悪い過去だけ切り捨てて生きるなんてことはできないんだよ。

「こんなふうに漠然と嫌な感じを受けるより、あたし、何があったのかはっきり思い出したほうが楽かも」

最近沙耶ちゃんはしきりに事故のことを聞きたがる。

教えるのは俺も抵抗があるから、とりあえず「思い出してもいいよ」と、ストッパーを外すように促している。

奥さんは、きっと近いうちに全部思い出して、元の性格に戻る。

俺ね、今、回線が開きっぱなしの状態だから、いろんなモノが視えてるわけ。

生きてる人間とそうじゃないヤツの区別がつかないぐらい、くっきりと。

奥さんの後ろには、三つの姿が見える。

足のない母親と……ちょっと成長したな(笑)

……七歳ぐらいの子どもと、そして、二人に囲まれるようにして、以前の陰のある表情の沙耶ちゃんが、ね。

今の明るい奥さんも、俺は好きだよ。

だから、うまく融合してくれるといいな。

とりあえず言っておくよ。

おかえり、沙耶ちゃん。

(18)エンディング

沙耶ちゃんのことをここに書き込み始めたのは、八月一日の深夜だった。

実はその前日の昼間、俺は思いがけない人に会った。

そのせいで、過去を掘り起こす必要が生じたようなもんだ。

一作目から登場させた、泥沼に沈んで死んだ坊主。

ヤツは、バラバラだった母親の体が再生した後から、姿を消してしまった。

成仏したかどうか俺にはわからなかったから、それからもずっと花は供えに行ってたんだ。

七月の最終日は溶けそうなぐらい暑い日だった。

小粒のひまわりと缶ジュースを、今は埋め立てられてる沼のほとりに置いて立ち去ろうとしたら、六〇は越えているだろう女性に声をかけられた。

「まことの同級生のかた?」

ちょっと驚いた。

まことっていうのは、俺の名前だったから。

その女性は坊主の母親だった。

俺、坊主が子どもの姿だったんで、てっきり母親も若いもんだと思ってたけど、考えてみれば、死んだときに子どもだっただけで、その後何年(何十年?)も経っていたわけだ。
適当に話を合わせながら雑談していたら、面白いことがわかったよ。

俺と坊主は、同名、同生年月日だったらしい。

俺ね、ずっと勘違いしてた。

坊主は沙耶ちゃんに惚れてて俺を敵視してるから、グロテスクな妄想を見せるのかと思ってたんだ(笑)

けど考えてみたらさ、坊主がパーツ集めだと教えてくれなかったら、俺はわけがわからないまま妄想で狂っていたかもしれない。

今は俺、多少変な方向ではあるけど、平和で現実的に暮らしてるわけ。

過去のオカルト経験なんかもうどうでもいいぐらいに。

だけどもしこの先、縁のある坊主とまた再会することができるなら、忘れちゃいけないだろ。このきっかけは。

だから書き残した。

巨大掲示板の中で顔の見えない人からレスをもらうたびに、

『もしかして、この中の一人は、坊主なんじゃないだろうか?』

なんて馬鹿馬鹿しい想像をしてる。

だから、いろんな意味を込めて、「ありがとう」と返事をすることにしている。

(完)

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