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中立の立場 rw+5,016

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これは、誰かに聞かせるための話ではない。

口に出すだけなら独り言で済む。そう思って、長いこと胸の中に残っているものを、今こうして言葉にしている。誰かに伝えたいわけではない。ただ、黙ったままでいると、ときどき夜中にあの山へ連れ戻される。

地元の零細企業に勤めていた頃のことだ。学校を出て数年、まだ社会人らしい振る舞いを身につけきれていなかった。給料は安かったが、人間関係は悪くなかった。年上の社員たちに混じって酒を飲み、くだらない話で笑う。そういう時間の中で、俺はようやく大人の側へ入ったような気がしていた。

きっかけも、その程度の飲み会だった。

虻川という先輩社員が、長谷山さんの仕事を「杜撰だ」とからかった。酔った席でよくある軽口だったと思う。周囲も笑っていた。

長谷山さんだけが笑わなかった。

彼には、昔は極道だったという噂があった。俺も聞いてはいたが、本気にはしていなかった。ただ、人に優しすぎて組を外された、という妙な話までセットで広まっていた。人を追い込むことのできない性格を組長に見抜かれ、「カタギの方が向いている」と追い出されたのだという。

だからなのか、会社ではむしろ面倒見のいい人として通っていた。

その人が、虻川の一言を境に変わった。

怒りは酒席で終わらなかった。翌日から長谷山さんは、虻川が過去に仕事上の不正をしていたと言い出した。しかも虻川一人ではない。岩井川、佐沢、八柳。名前が次々に出てきた。

長谷山さんは証拠も持っていた。

「全部、会社に出す」

そう言っていた。

不正そのものに俺は関わっていなかった。それでも、話を聞いただけで会社がどうなるかは想像できた。億単位の賠償が発生しかねない。そうなれば、この小さな会社はもたない。何も知らない社員まで職を失う。

俺は長谷山さんに、やめた方がいいと言った。

何を守りたかったのかは今でもわからない。会社だったのか、同僚だったのか、自分の給料だったのか。その晩、長谷山さんはしばらくして落ち着き、家へ帰った。

俺は、これで終わったと思った。

翌日の夜、虻川から電話が来た。

長谷山さんと和解することになったから、中立の立場で立ち会ってほしいという。

和解と聞いて、俺はほっとした。承諾すると、佐沢が車で迎えに来た。

車は市街地を離れた。

最初は店か誰かの家へ行くのだと思っていた。だが建物の灯りが減り、窓の外を黒い木々が流れ始めても、佐沢は何も言わなかった。ラジオもつけていなかった。

「どこ行くんですか」

俺が聞いたかどうか、もう覚えていない。

そのあたりから記憶が妙に欠けている。

車を降りた場所には木が密集していて、足元に落ち葉が積もっていた。少し開けた場所まで進むと、人が集まっていた。

中央に長谷山さんが正座していた。

周りに虻川、岩井川、八柳。それから、俺の知らない男が何人かいた。

長谷山さんは泣いていた。

酒席で虻川を睨みつけていた顔とはまるで違っていた。肩を揺らし、何度も頭を下げながら、やめてくれ、と繰り返していた。

誰かが言った。

「遺書を書け」

長谷山さんは首を振った。

「できません……書けません……」

そこから先は、順番に思い出せない。

家族のことを持ち出す声。落ち葉を踏む靴の音。低く押し殺した呻き声。何かが地面に当たる鈍い音。倒された長谷山さんが身体を起こそうとして、また地面へ戻される姿。

俺がどこに立っていたのかも、はっきりしない。

止めた記憶はない。

逃げた記憶もない。

気がついたときには、佐沢の車から自宅の前へ降ろされていた。何時だったか覚えていない。玄関をどうやって開けたのかも記憶にない。

そのまま眠った。

翌朝、会社へ行くと同僚が言った。

「長谷山さん、山林で自殺したんだって」

俺は何も言わなかった。

あの夜のことを話せば、自分もあの場所へ連れて行かれる。そう考えたのかもしれない。考えるより先に黙っていたのかもしれない。

通夜には出た。

奥さんが俺の前で頭を下げた。

「お手数をかけてすみませんでした」

俺は返事ができなかった。

何に対して謝られているのかわからなかった。葬儀に来てもらったことなのか、生前に夫が迷惑をかけたことなのか。それとも俺の知らない何かなのか。

顔を上げられないまま、その場を離れた。

やがて俺は地元を出た。

虻川も佐沢も岩井川も八柳も、会社では普通の人だった。家族の話をし、休日の予定を話し、笑いながら飯を食う人たちだった。それはあの夜のあとも変わらなかった。

俺には、そのことの方が長く残った。

今でも眠っていると、山の中の音だけが戻ってくることがある。落ち葉。靴音。息を詰めるような声。

ただし、どうしても一つだけ思い出せない。

あの夜、最後に長谷山さんが何と言ったのか。

何年も経ってから、夢の中でそこだけが少しずつ聞こえるようになった。

最初は声だけだった。

そのうち、何かを呼んでいるのだとわかった。

そして最近になって、それが人の名前らしいと気づいた。

俺の名前だった。

だから目が覚めるたびに考える。

長谷山さんが最後に俺を呼んだのだとしたら、助けを求めたのだろうか。

それとも、あの場にいた人間を、一人ずつ覚えていたのだろうか。

俺は今も、その先だけを思い出せない。

[出典:163 :名無しさん@おーぷん :2014/11/11(火)22:14:20 ID:17ndlsgLL]

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