祖父母の家は海に近かった。
家を出て五分ほど歩き、古いトンネルを抜けると海沿いの道に出る。そこからさらにもう一つトンネルを抜けた先に、ちょっとした砂浜があった。観光地というほどではないが、民宿がいくつかあり、夏場は地元の人と観光客が混じる静かな場所だった。
十年ほど前の夏、当時小学生だった私は、その祖父母の家に預けられていた。両親は共働きで、迎えはいつも夜遅い。夕方になると祖父と花火をするのが恒例で、その日も砂浜でやろうという話になっていた。
私は花火とバケツを持ち、まだ明るいし暑いからと腰の重い祖父を置いて先に家を出た。
最初のトンネルを抜けたとき、違和感はあった。
海が近いのに、音がしない。波の音も、風の音も聞こえなかった。ただ、その時は夜の海に慣れていないせいだと思い、気にしなかった。
二つ目のトンネルを抜けて、砂浜が見えた瞬間に足が止まった。
海が、なかった。
干潮という言葉では足りないほど、水が引いていた。見渡す限り、濡れた砂と泥が広がり、遠くのテトラポッドまで完全に露出している。距離にして三百メートル近くはあったと思う。月明かりに照らされて、さっきまで海底だった場所がはっきり見えていた。
怖いと思う前に、妙な高揚感があった。
夜に一人で外を歩いていること自体が特別で、その異様な光景も「すごいものを見ている」という感覚に変わっていた。
私は階段を降り、砂浜に足を踏み入れてしまった。
砂はぐちゃぐちゃに湿っていて、少し進むと砂利に変わった。海藻や貝殻、死んだ魚が点々と落ちている。月の光だけで足元ははっきり見えるのに、周囲は異様なほど静かだった。
途中で、気づいた。
本当に、音がない。
自分の足音すら、妙に遠い。
不安になって振り返った。
祖父が見えた。
砂浜の階段の上ではなく、もう半分ほど降りた位置に立っていた。こちらを見ている。声をかけているようにも見えたが、何も聞こえなかった。
おかしい、と思った。
祖父はまだ家を出たばかりのはずだった。あの距離を、あの時間で、そこまで来るはずがない。
その瞬間、体の奥に溜まっていた興奮が一気に抜けた。
怖い、と思った。
私は持っていたバケツをその場に放り出し、踵を返した。祖父のところまで走ろうとしたが、腕を掴まれたのは一瞬だった。
「行くな」
低い声だった。
次の瞬間には、祖父は私の腕を強く掴み、ほとんど引きずるようにして階段を上がらせた。振り返る暇はなかった。
家まで小走りで戻ったが、その間も祖父は一言も喋らなかった。普段は穏やかな人が、あんなに取り乱した様子を見たのは後にも先にもあれだけだ。
それ以降、同じ光景を見たことはない。
数年前、津波対策で高い防潮壁が作られ、あの砂浜は外から見えなくなった。
祖父に何度か、あの夜のことを聞いた。
海が消えていたこと、音がなかったことを話しても、祖父は決まって話題を変えるだけだった。
あのとき、祖父が何を見て、何を感じていたのかは、今もわからない。
(了)
[出典:542 :本当にあった怖い名無し:2025/06/22(日) 10:24:20.29ID:i5tQHu8M0]