今でも湿った潮風を思い出すと、胃の奥が重たくなる。
あの夜、角造さんの身に降りかかった出来事を、私は本人の口から聞いた。まるで自分がそこに居合わせたかのように生々しい語り口だったから、今でも忘れられない。
島の夜は海鳴りと風の音が混ざり合い、都市のざわめきとはまるで違う息苦しさを孕んでいる。黒々とした海は果てがなく、視界の先はどこまでも沈み込んでいくように見える。角造さんが運転していたのは、そんな夜だった。
仕事が長引いて、帰路についたのは小雨が落ち始めた頃。車のワイパーが規則的に動き、ヘッドライトが濡れた路面を反射させる。窓を閉め切っているはずなのに、湿気を帯びた冷気が体に忍び込んでくる。島特有の湿度と孤独感が、肺の奥に重たく溜まっていった。
やがて進行方向に赤い点滅が浮かび上がる。工事現場の照明だった。車を停め、作業員に声をかけると、雨で作業が遅れており、通行止めはしばらく続くという。仕方なくエンジンを切り、薄暗い車内に身を沈めたものの、時間が過ぎるほどに苛立ちと退屈が募る。煙草を吸おうと外に出ると、雨粒が頬を打ち、潮混じりの冷気が肌にまとわりついた。
ふと耳に届いたのは、近くで休憩している作業員たちの会話だった。笑い交じりの声が、小雨の中に妙に大きく響く。
「七人岬のこと、知ってるか?」
耳慣れない言葉に角造さんは自然と聞き入った。七人の坊主が村に流れ着き、飢え死にした。供養塔が建てられるまで、村には奇病が広がった。悪口を言えば祟られる。そんな話を、作業員たちは軽口まじりに語り合っていた。最初は冗談のように思えたが、やがて彼らは声を揃え、亡者を嘲るように罵り言葉を吐き始めた。湿った空気に響くその声は、奇妙に伸びて夜の闇へ染み込んでいく。
角造さんは煙草を吸いながら、胸の奥に嫌なざわめきを覚えた。笑う彼らの背後に、薄闇の中から無数の目がじっと覗いているように見えたのだ。
やがて工事が終わりに近づき、角造さんは車へ戻った。ドアを閉めた瞬間、地鳴りのような轟音が夜を裂いた。崖が崩れ、土砂が怒涛の勢いで工事現場を襲ったのだ。ライトの光が茶色い奔流に呑まれるのを、彼はただ呆然と見ていた。小石が車体を叩き、外からは怒号と悲鳴が入り交じる。
角造さんは必死で携帯を取り出し、救助を呼んだ。駆けつけた警察と消防によって現場は混乱の極みに達し、夜が明けても作業は続いていた。

やがて警察署に連れて行かれ、事情を説明した後、不意に角造さんは尋ねた。
「被害は……どれくらいだったんですか」
答えた警官の低い声が、耳に焼き付いた。
「死者は七人です」
その数を聞いた瞬間、角造さんの心臓は掴まれたように跳ねた。ほんの少し前に聞いた作業員たちの笑い声が蘇る。七人岬。七人の坊主。七つの命。
警察署の蛍光灯はやけに白く、冷たく光っていた。彼はその場で立ち上がれなくなり、床に爪を立てるようにして震えていた。

それ以来、角造さんは島を離れ、本土で暮らすようになったそうだ。しかし夜道で雨に濡れた崖を見るたびに、あの七という数が頭に浮かんで離れないのだという。
彼の声が震えていたのは、寒さのせいではなかった。あの夜の湿気と笑い声が、今でも生きて彼を縛りつけているのだ。
(了)