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短編 r+ 奇妙な話・不思議な話・怪異譚

二十三分 rwG+3,081

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あの日の教室の匂いを、いまでも覚えている。

八月の朝だった。窓から入ってくる空気は生温く、鉛筆と汗の匂いに、鉄のようなものが混じっていた。血が流れていたわけではない。それでも、あの二十三分が終わったとき、そこはもう、それまでの教室ではなくなっていた。

最初に泣いていたのは担任だった。三学期の途中からぼくらのクラスを受け持った、地味でやさしい女の先生だ。一人ひとりの名前をきちんと呼ぶ人だった。

その先生が教壇の前で机に両手をつき、しゃくり上げながら何度も言っていた。

「この子たちに罪はないんです」

泣きすぎて白目が見えていた。ぼくは先生の言葉より、その顔を見ていた。大人でも、本気で泣くとこんな顔になるのだと初めて知った。

時報が鳴った。

扉が開き、見たことのない女が入ってきた。制服のような服を着ていたが、学校の制服ではない。女は教壇まで来ると担任の肩に手を置き、何も言わせないまま廊下へ連れ出した。

誰も声を出さなかった。

少しして女だけが戻ってきた。

「みなさん、おはようございます」

初めて教室に来た人とは思えない笑顔だった。

女はぼくの名前を呼んだ。それから隣の子、前の席の子の名前も呼んだ。足が速いこと、給食では何が好きか、家で何を飼っているかまで知っていた。三日かけて覚えたのだという。

「せっかくだから、最初に少し勉強しましょうか」

女が黒板の上を指した。額に入った三つの言葉が並んでいた。

平等。自由。平和。

「意味を知っている人?」

手は挙がらなかった。

知らない言葉ではなかった。ただ、知っていると言っていいのか、ぼくにはわからなかった。

後ろの席の女の子が、教師の服を見ながら言った。

「その服、変わってる」

「そう?」

教師は自分の袖を眺めた。

「じゃあ、明日からみんなで着ましょうか。同じ服なら、朝に迷わなくていいでしょう」

女の子たちの何人かが笑った。

「これが平等よ」

ぼくは思わず口を挟んだ。

「違うと思う」

教室が静かになった。

「同じ服を着ろって言われて、着るだけじゃん」

教師は怒らなかった。それどころか、少しうれしそうにぼくを見た。

「そうね。自分で好きな服を選ぶ。それも自由だものね」

そこで一度言葉を切った。

「でも、自由には責任があるわ」

二日前、父さんは学校に呼ばれていた。母さんは「少し話を聞いてくるだけ」と言った。その言い方を聞いたときから、ぼくは落ち着かなかった。

話を聞くだけだと言われたあと、連絡が取れなくなる人がいることを、ぼくは知っていた。

机の奥に隠していた新聞の切り抜きを出した。大人たちの決まりが少しずつ変わっていることが書かれていた。前と同じ名前のまま、前とは違うことが始まっている。

「先生」

教師がこちらを向いた。

「決まりって、勝手に変えていいの?」

彼女はすぐには答えなかった。

「間違っているなら、変えなくちゃいけないでしょう?」

「じゃあ、間違ってるって誰が決めるの」

今度は教師が笑った。

その笑顔を見た瞬間、質問したのは自分なのに、ぼくは答えを聞きたくなくなった。

教師は黒板から離れた。

「難しい話はここまで。明日から、みんなでお泊まりをします」

ざわめきが起こった。

きれいな部屋があって、ご飯も出る。みんな一緒だから寂しくない。教師がそう説明すると、すぐに歓声が上がった。

「何が食べたい?」

カレー、オムライス、プリン。あちこちから声が飛んだ。

「じゃあ、お願いしてみましょうか。目を閉じて」

子どもたちは笑いながら目を閉じた。

ぼくも閉じたふりをした。

教師が机の間を歩いていた。一人ひとりの前で止まり、何かを置いていく。足音はほとんどしなかった。

「はい。目を開けて」

机の上には、小さな菓子が置かれていた。

歓声が上がった。

「先生が置いたんじゃん」

ぼくが言うと、教師はあっさり頷いた。

「そうよ」

みんなの顔から笑いが消えた。

「でも私は、言われた通りに置いただけ。だから、私からあげたものではないの」

一人が拍手をした。

それにつられて、何人かが手を叩いた。すぐに教室中へ広がった。

教師はその音の中でぼくを見た。

「あなたはよく見ているのね」

その日初めて褒められた。

「ちゃんと自分で考えている。立派だわ」

周りの子も頷いた。賢い、すごい、と誰かが言った。

さっきまで教師に食ってかかっていたぼくを、今度はみんなが見ていた。

「クラス委員をお願いしようかしら」

断る理由を考えているうちに、拍手が起こった。

「じゃあ、最初の仕事をお願い」

教師は黒板の上を指した。

「その額、外してくれる?」

平等。自由。平和。

三つの言葉を見上げた。

誰かが小さな声で「でも」と言った。

教師はそちらを見もしなかった。

「大切なのは額じゃないでしょう。言葉は、心の中にあればいいもの」

ぼくは椅子を教壇の横まで運び、その上に立った。

額は思ったより重かった。留め具から外すと、木枠の端が手のひらに引っかかった。

窓を開け、外へ放った。

下で木の割れる音がした。

教室から歓声が上がった。

椅子を降りると、手のひらに細い傷ができていた。血が少しにじんでいた。

時計を見た。

時報から、二十三分が過ぎていた。

教師は箱を開けた。中には新しい教科書と、彼女が着ているものと同じ服が入っていた。

「古いものを片づけた人から、取りに来てください」

椅子が床を擦った。

一番に立ち上がったのは、ぼくだった。

あれから十年になる。

今、ぼくは教壇に立っている。

服も教科書も、もう誰も珍しがらない。黒板の上に額もない。

それでも最初の朝だけは、こちらをじっと見る子がいる。質問したそうな顔をしている子もいる。

そういう子は、よく見てやることにしている。

考える子ほど、役目を与えればよく働く。

壁の時計を見る。

授業が始まって、まだ三分しか経っていない。

ぼくは机の上の菓子に手を伸ばした。

「では、みなさん。目を閉じてください」

[出典:514 :1:2009/06/15(月) 02:32:02.65 ID:fkjTQUvs0]

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