あの日の教室の匂いを、いまでも覚えている。

八月の朝だった。窓から入ってくる空気は生温く、鉛筆と汗の匂いに、鉄のようなものが混じっていた。血が流れていたわけではない。それでも、あの二十三分が終わったとき、そこはもう、それまでの教室ではなくなっていた。
最初に泣いていたのは担任だった。三学期の途中からぼくらのクラスを受け持った、地味でやさしい女の先生だ。一人ひとりの名前をきちんと呼ぶ人だった。
その先生が教壇の前で机に両手をつき、しゃくり上げながら何度も言っていた。
「この子たちに罪はないんです」
泣きすぎて白目が見えていた。ぼくは先生の言葉より、その顔を見ていた。大人でも、本気で泣くとこんな顔になるのだと初めて知った。
時報が鳴った。
扉が開き、見たことのない女が入ってきた。制服のような服を着ていたが、学校の制服ではない。女は教壇まで来ると担任の肩に手を置き、何も言わせないまま廊下へ連れ出した。

誰も声を出さなかった。
少しして女だけが戻ってきた。
「みなさん、おはようございます」
初めて教室に来た人とは思えない笑顔だった。
女はぼくの名前を呼んだ。それから隣の子、前の席の子の名前も呼んだ。足が速いこと、給食では何が好きか、家で何を飼っているかまで知っていた。三日かけて覚えたのだという。
「せっかくだから、最初に少し勉強しましょうか」
女が黒板の上を指した。額に入った三つの言葉が並んでいた。
平等。自由。平和。
「意味を知っている人?」
手は挙がらなかった。
知らない言葉ではなかった。ただ、知っていると言っていいのか、ぼくにはわからなかった。
後ろの席の女の子が、教師の服を見ながら言った。
「その服、変わってる」
「そう?」
教師は自分の袖を眺めた。
「じゃあ、明日からみんなで着ましょうか。同じ服なら、朝に迷わなくていいでしょう」
女の子たちの何人かが笑った。
「これが平等よ」
ぼくは思わず口を挟んだ。
「違うと思う」
教室が静かになった。
「同じ服を着ろって言われて、着るだけじゃん」
教師は怒らなかった。それどころか、少しうれしそうにぼくを見た。
「そうね。自分で好きな服を選ぶ。それも自由だものね」
そこで一度言葉を切った。
「でも、自由には責任があるわ」
二日前、父さんは学校に呼ばれていた。母さんは「少し話を聞いてくるだけ」と言った。その言い方を聞いたときから、ぼくは落ち着かなかった。
話を聞くだけだと言われたあと、連絡が取れなくなる人がいることを、ぼくは知っていた。
机の奥に隠していた新聞の切り抜きを出した。大人たちの決まりが少しずつ変わっていることが書かれていた。前と同じ名前のまま、前とは違うことが始まっている。
「先生」
教師がこちらを向いた。
「決まりって、勝手に変えていいの?」
彼女はすぐには答えなかった。
「間違っているなら、変えなくちゃいけないでしょう?」
「じゃあ、間違ってるって誰が決めるの」
今度は教師が笑った。
その笑顔を見た瞬間、質問したのは自分なのに、ぼくは答えを聞きたくなくなった。
教師は黒板から離れた。
「難しい話はここまで。明日から、みんなでお泊まりをします」
ざわめきが起こった。
きれいな部屋があって、ご飯も出る。みんな一緒だから寂しくない。教師がそう説明すると、すぐに歓声が上がった。
「何が食べたい?」
カレー、オムライス、プリン。あちこちから声が飛んだ。
「じゃあ、お願いしてみましょうか。目を閉じて」
子どもたちは笑いながら目を閉じた。
ぼくも閉じたふりをした。
教師が机の間を歩いていた。一人ひとりの前で止まり、何かを置いていく。足音はほとんどしなかった。
「はい。目を開けて」
机の上には、小さな菓子が置かれていた。
歓声が上がった。
「先生が置いたんじゃん」
ぼくが言うと、教師はあっさり頷いた。
「そうよ」
みんなの顔から笑いが消えた。
「でも私は、言われた通りに置いただけ。だから、私からあげたものではないの」
一人が拍手をした。
それにつられて、何人かが手を叩いた。すぐに教室中へ広がった。
教師はその音の中でぼくを見た。
「あなたはよく見ているのね」
その日初めて褒められた。
「ちゃんと自分で考えている。立派だわ」
周りの子も頷いた。賢い、すごい、と誰かが言った。
さっきまで教師に食ってかかっていたぼくを、今度はみんなが見ていた。
「クラス委員をお願いしようかしら」
断る理由を考えているうちに、拍手が起こった。
「じゃあ、最初の仕事をお願い」
教師は黒板の上を指した。
「その額、外してくれる?」
平等。自由。平和。
三つの言葉を見上げた。
誰かが小さな声で「でも」と言った。
教師はそちらを見もしなかった。
「大切なのは額じゃないでしょう。言葉は、心の中にあればいいもの」
ぼくは椅子を教壇の横まで運び、その上に立った。
額は思ったより重かった。留め具から外すと、木枠の端が手のひらに引っかかった。
窓を開け、外へ放った。
下で木の割れる音がした。
教室から歓声が上がった。
椅子を降りると、手のひらに細い傷ができていた。血が少しにじんでいた。
時計を見た。
時報から、二十三分が過ぎていた。
教師は箱を開けた。中には新しい教科書と、彼女が着ているものと同じ服が入っていた。
「古いものを片づけた人から、取りに来てください」
椅子が床を擦った。
一番に立ち上がったのは、ぼくだった。
あれから十年になる。
今、ぼくは教壇に立っている。
服も教科書も、もう誰も珍しがらない。黒板の上に額もない。
それでも最初の朝だけは、こちらをじっと見る子がいる。質問したそうな顔をしている子もいる。
そういう子は、よく見てやることにしている。
考える子ほど、役目を与えればよく働く。
壁の時計を見る。
授業が始まって、まだ三分しか経っていない。
ぼくは机の上の菓子に手を伸ばした。
「では、みなさん。目を閉じてください」
[出典:514 :1:2009/06/15(月) 02:32:02.65 ID:fkjTQUvs0]