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短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

余った糸 nw+256-0210

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「ちょっと、君の手を貸してくれないかな?」

運転席から差し出されたその手は、ひどく温かかった。冬でもないのに、掌だけが体温を持っているような、不自然な熱だった。初対面の相手に触れられること自体が気持ちのいいものではない。それでも、断る理由を探すより先に、私はその手を取っていた。

触れた瞬間、何かが走った。電気のようでも、寒気でもない。ただ、胸の奥に沈めていたものを、無理やり引き上げられた感覚。思い出したくないという意識ごと、掴まれたような感触が残った。

その夜、私は掲示板のオフ会に参加していた。心霊系スレッドの常連が集まり、車を連ねて有名なスポットを回る、よくある集まりだ。車は三台。私は「霊感があるらしい」と噂されていたTさんの車に同乗していた。

Tさんは柔らかい口調で、よく笑い、冗談も言う。いかにも人当たりがよく、同時にどこか信用しきれない雰囲気を持った人だった。視線が合うと、こちらを観察しているというより、置き去りにされた部分を探しているような目をする。

最初の場所では何も起きなかった。風が強く、木の枝が擦れる音だけがやけに耳に残った。

車に戻ると、誰かが冗談半分に聞いた。

「霊視って、本当にあるんですか?」

Tさんは即座に答えた。

「ないですよ。霊視なんて。あれはコールドリーディングです」

意外な返答に、車内が一瞬静まった。

「相手の反応を拾って、そこから組み立てるだけです。手品と同じ」

そう言って、Tさんは私の方を見た。

「部屋のカーテン、青系でしょう」

曖昧な言い方だったが、私は黙ってしまった。

「ベッドの横に、木のタンスがありますね。背の低い」

当たっていた。でも、顔に出ていたのかもしれない。自分でそう納得しようとした。

「こんなの、誰でもできますよ」

そう言った直後、Tさんは少し間を置いた。

「……もう一つ、やってみようか」

その瞬間、車内の空気が変わった。言葉の探りが消え、読むような声になった。

「君のお母さん。育ててくれた人じゃなくて、生んだほう」

私は息を止めていた。

「その人の実家、H市のM町だ」

町名を聞いた瞬間、頭の奥が鈍く鳴った。誰にも話していない。自分でも、はっきり覚えていなかったはずの名前だった。

「縁が、途中で止まってる」

Tさんは、私の手をまだ握っていた。

「このままだと、その縁は戻らない。戻らないまま、別のものが繋がる」

意味を尋ねる前に、次の言葉が続いた。

「行くなら、結婚の前だ。庭に埋められた井戸の跡がある。酒を撒いて、塩と水を置いて」

私は、どうしてそんな話ができるのかと聞こうとして、やめた。聞いてはいけない気がした。

数日後、父に電話をかけ、母の実家の住所を聞いた。H市M町だった。偶然だと言い切るには、妙に具体的だった。

彼と一緒に、その家を訪ねた。出迎えた老夫婦は、驚いたような顔をして、しばらく何も言えずに私を見ていた。

「……やっと来たのね」

祖母はそう言った。待っていたとも、探していたとも言わなかった。ただ、来るべきものが来た、という言い方だった。

裏庭には、平たい石が一つ残っていた。昔、井戸があった場所だと教えられた。私は何も説明せず、酒を撒き、塩と水を置いた。祖父母は止めなかった。

帰り際、祖父がぽつりと言った。

「最近、変な夢を見る。知らない男が、家の縫い目を直している」

数週間後、祖父は亡くなった。容態が急に悪化したわけではない。ただ、静かに、眠るようにだった。

結婚式の日、親族席に祖父母の姿はなかった。代わりに、控室の鏡の前で、私はふと左手を見た。薬指の付け根に、細い赤い跡が残っていた。指輪の跡ではない。縫い針で引っかけたような、細く歪んだ線だった。

Tさんとは、その後会っていない。連絡先も知らない。思い出そうとしても、顔の細部が曖昧になっていく。

ただ、あの夜の手の温度だけは忘れない。

人の縁は、ほどけるだけでは終わらない。
誰かが縫い直したとき、必ず余った糸が残る。
それが、どこに回されるのかは、選べない。

(了)

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