暗い鏡の前に置かれた手と、薬指のそばでほつれる赤い糸。題名は余った糸。

短編 奇妙な話・不思議な話・怪異譚 n+2025

余った糸 nw+408

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「ちょっと、君の手を貸してくれないかな?」

停車中の車で、運転席のTさんが差し出した手は、ひどく温かかった。窓から入る夜気に比べ、掌だけが妙に熱かった。初対面の相手に触れられること自体が気持ちのいいものではない。それでも、断る理由を探すより先に、私はその手を取っていた。

触れた瞬間、何かが走った。電気のようでも、寒気でもない。ただ、胸の奥に沈めていたものを、無理やり引き上げられた感覚。思い出したくないという意識ごと、掴まれたような感触が残った。

その夜、私は掲示板のオフ会に参加していた。心霊系スレッドの常連が集まり、車を連ねて有名なスポットを回る、よくある集まりだ。車は三台。私は「霊感があるらしい」と噂されていたTさんの車に同乗していた。

Tさんは柔らかい口調で、よく笑い、冗談も言う。いかにも人当たりがよく、同時にどこか信用しきれない雰囲気を持った人だった。視線が合うと、こちらを観察しているというより、置き去りにされた部分を探しているような目をする。

最初の場所では何も起きなかった。風が強く、木の枝が擦れる音だけがやけに耳に残った。

車に戻ると、誰かが冗談半分に聞いた。

「霊視って、本当にあるんですか?」

Tさんは即座に答えた。

「ないですよ。霊視なんて。あれはコールドリーディングです」

意外な返答に、車内が一瞬静まった。

「相手の反応を拾って、そこから組み立てるだけです。手品と同じ」

そう言って、Tさんは私の方を見た。

「部屋のカーテン、青系でしょう」

曖昧な言い方だったが、私は黙ってしまった。

「ベッドの横に、木のタンスがありますね。背の低い」

当たっていた。でも、顔に出ていたのかもしれない。自分でそう納得しようとした。

「こんなの、誰でもできますよ」

そう言った直後、Tさんは少し間を置いた。

「……もう一つ、やってみようか」

その瞬間、車内の空気が変わった。言葉の探りが消え、読むような声になった。

「君のお母さん。育ててくれた人じゃなくて、生んだほう」

私は息を止めていた。

「その人の実家、H市のM町だ」

町名を聞いた瞬間、頭の奥が鈍く鳴った。誰にも話していない。自分でも、はっきり覚えていなかったはずの名前だった。

「縁が、途中で止まってる」

Tさんは、私の手をまだ握っていた。

「このままだと、その縁は戻らない。戻らないまま、別のものが繋がる」

意味を尋ねる前に、次の言葉が続いた。

「行くなら、結婚の前だ。庭に埋められた井戸の跡がある。酒を撒いて、塩と水を置いて」

私は、どうしてそんな話ができるのかと聞こうとして、やめた。聞いてはいけない気がした。

数日後、父に電話をかけ、母の実家の住所を聞いた。H市M町だった。偶然だと言い切るには、妙に具体的だった。

結婚を控えた彼と一緒に、その家を訪ねた。出迎えた老夫婦は、驚いたような顔をして、しばらく何も言えずに私を見ていた。

「……やっと来たのね」

祖母はそう言った。待っていたとも、探していたとも言わなかった。ただ、来るべきものが来た、という言い方だった。

裏庭には、平たい石が一つ残っていた。昔、井戸があった場所だと教えられた。私は何も説明せず、酒を撒き、塩と水を置いた。祖父母は止めなかった。

帰り際、祖父がぽつりと言った。

「最近、変な夢を見る。知らない男が、家の縫い目を直している」

数週間後、祖父は亡くなった。容態が急に悪化したわけではない。ただ、静かに、眠るようにだった。

結婚式の日、親族席に祖父の姿はなかった。控室の鏡の前で、私はふと左手を見た。薬指の付け根に、細い赤い跡が残っていた。指輪の跡ではない。縫い針で引っかけたような、細く歪んだ線だった。

Tさんとは、その後会っていない。連絡先も知らない。思い出そうとしても、顔の細部が曖昧になっていく。

ただ、あの夜の手の温度だけは忘れない。

あの夜、Tさんは何を縫い直したのだろう。
薬指の赤い跡を見るたび、余った糸が私のほうへ回されてきた気がする。
あの手を取ったときから、もう離してもらえていないのかもしれない。

(了)

この改稿について

掲示板由来の話を脚色した当サイトの改稿です。比較掲載「あれはコールドリーディングというテクニックですよ」には、三台の車のオフ会、Tさん、実母の実家、井戸への供え物という共通の筋があります。ただし比較版では祖父が快方に向かい、結婚式にも出席します。本稿の祖父の死、縫い目の夢、薬指の赤い跡と不穏な結末は、当サイトの既存改稿で加わった描写です。原投稿の番号・投稿日時・投稿者IDは今回確認できていません。供え物と健康状態・死との因果関係を確認した体験談として扱うものではありません。

比較掲載:あれはコールドリーディングというテクニックですよ

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