平成の始め、高校一年の夏休みを前にして、父親の会社が倒産した。
急に目の前の床板が抜け落ちたような感覚で、それでも学校に掛け合って弁当工場でバイトを始めた。昼は授業、夕方から夜は工場。そんな生活が続いた。
家に帰れば、父親は仕事から解放されたとでもいうように遊び歩いていた。俺が必死に働く姿と正反対の姿に苛立ちが込み上げたけれど、落ち込んで酒に溺れるよりはいいだろうと、諦めることにした。
秋になるころ、失業保険も尽きた。普通なら焦って仕事を探すはずなのに、父は就活どころかますます外に出かけていった。母は黙って働いていたが、ある日、貯金を持ったまま蒸発した。泣くより先に生活の心配が押し寄せた。
二週間も経たないうちに、今度は父まで「母さんを探してくる」と言い残し消えた。二人が戻ることはついになかった。
突然の一人暮らし。手持ちの金は限られ、休学してフルタイムで働くことにした。十五万あれば大丈夫だろう、持ち家だし、という軽い楽観もあった。だが実際には風呂も服も放置で、工場で余った弁当をかじる毎日。泣く夜も多かった。
友達はいない。頼る人もいない。そんな中でたまに祖父母が来てくれた。「一緒に暮らそう」と誘ってくれたが、「両親が帰らなかったらお願いします」などと口走ってしまった。なぜ断ったのか分からない。あのときの後悔だけが鮮明に残っている。
その冬。バレンタインにバイト先の年下の子からチョコを渡され、告白された。俺は即座に頷いた。誰とも話さず沈んでいた心が、彼女の言葉で一気に解き放たれた。
彼女は独特な考え方を持っていた。会話はかみ合わないこともあったが、不思議と喧嘩にはならなかった。春のある晩、彼女が家に押しかけ「父の借金で家を追い出された」と言った。嫌になって逃げてきたという。二人暮らし。夢のような響きだった。
翌朝、彼女は唐突に言った。
「私、人の心が読めるんだ。さっき頭の中で〇〇の曲歌ってたでしょ」
寝ぼけて鼻歌でも歌っていたのだろうと笑って済ませたが、その後も彼女は俺の心を当て続けた。ぞっとした。だが一人になる怖さの方が勝ち、暮らしを続けた。
奇妙なことが起こり始めたのはそれからだ。隣の畑から深夜に祭囃子のような音がする。寝ようとすると、隣の部屋から得体の知れない音。狂ったような夜が積み重なっていった。
夏の初め、彼女はさらに告白した。
「前に言ったこと、嘘。人の心が読めるんじゃなくて……慎二の心だけ聞こえるの。他の人も聞こえるって言ってる」
真顔だった。本気だと分かった。背中を氷で撫でられたような恐怖。頭を空っぽにしなければと思い、家を飛び出した。農道を歩き続けるうちに、夕暮れの空がやけに眩しくなり、視界が白んでいった。
――気づいたとき、病院のベッドの上にいた。
窓の外は冬。夏のはずなのに。看護師が言うには、もう一年近く入院しているという。医者の説明はさらに信じ難かった。高校一年の年明け、俺は自宅で錯乱状態となり、偶然訪れた祖母が一一九番を呼んだらしい。それからずっと治療を受けていた、と。
頭の中は混乱の渦だった。ついさっきまで、確かに彼女と暮らしていたのに。あの毎日は幻だったのか。そもそも年下の彼女がバイトにいたこと自体、現実ではありえないはず。
受け入れるしかなかった。彼女の記憶は存在しないと。食事も喉を通らず、一週間は地獄のようだった。死のうかと思ったこともあったが、結局俺は死ねなかった。
統合失調症と診断された。以来、治療を受けながら生き続けている。
だが今でも夢に彼女が出る。二人で暮らした部屋。朝の会話。あの不思議な微笑み。目が覚めた後に涙が止まらなくなる。
あの彼女は、別の世界でまだ俺を待っているのだろうか。俺の心を覗きながら、静かに笑っているのだろうか。
現実にいないと分かっていても、俺の一部はあの世界に置き去りにされたままだ。