今でも、あの時に見た深海の青色を思い出すと、胸の奥に何とも言えないざわめきが広がる。
数年前の夏、私は趣味のスキンダイビングで海に潜っていた。酸素ボンベなど大げさな装備はなく、ただ肺の中に溜め込んだ空気だけを頼りに、私は水面から一気に沈み込んでいった。およそ十メートルほど。耳が痛くなるほどの水圧を感じながらも、私は海中に広がる青い世界の静謐さに酔いしれていた。
上下の感覚は曖昧で、海面にきらめく光は天井なのか、それとも遠い異世界の入口なのか分からなかった。海中にいると、不思議と自分の心も透き通っていくようで、澄みきった青さがそのまま胸の中に流れ込んでくる。私は、ただその静けさに身を委ねていた。
だが、至福の時間は唐突に終わりを告げた。
身体ごと叩きつけられるような衝撃が走り、視界は一瞬にして真っ白に塗り潰された。音も感覚も奪われ、私は水の中で方向すら掴めず漂っていた。ようやく意識が戻った時、脳裏に浮かんだのは「衝突」という言葉だった。後に分かったのは、漁船の船底にぶつけられたのだという事実だった。
頭は割れるように痛み、命令を出しても四肢はぎこちなく震えるばかりで動かない。水中に沈んでは必死に浮かび上がろうとし、そのたびに肺が焼け付く。頭部から血が流れ出し、周囲の海が不気味なほど赤く染まっていった。私は、そこで初めて「死」というものを現実に感じた。
「もう駄目かもしれない」
そう思った瞬間、なぜか不思議な安らぎが訪れた。身体は傷つき、意識は遠のいていくのに、波に揺られているとまるで母の腕に抱かれているかのような心地よさに包まれたのだ。死の間際に人は幻をみるというが、私が見たのは幻ではなかった。
意識がぼやけては戻る。その繰り返しの中で、突然、私は「誰かに助けられた」と確信した。腕を引かれたような感覚。だが、周囲を見ても人の姿はない。私が辿り着いたのは岸から繋がる岩場だった。奇妙だったのは、その岩が硬い感触ではなく、温かく柔らかい大きな掌のように私を受け止めていたことだった。
さらに、その瞬間を追うように大波が押し寄せ、私は海面から引き上げられるようにして岩場の上へと打ち上げられた。信じ難いことに、私の全身を覆っていたのは厚く絡みついた海草だった。岩肌の鋭さから私を守るように、海草は柔らかな絨毯となっていた。血に染まった私を包み、まるで「ここに生きろ」と言わんばかりに支えてくれていた。
朦朧とした意識の中で、涙があふれ続けた。理屈では説明できない。ただ、その温もりに、私は人間ではない大きな何かの「意志」を感じていた。神だとか精霊だとか、そうした名前をつけることは出来ない。けれど確かに、あの瞬間の私は、自然そのものに抱きしめられていたのだ。
やがて立ち上がろうとした時、不思議な光景が広がった。全身にまとわりついていた海草たちが、一斉に海へと戻っていったのだ。生命の塊のように蠢きながら、潮の流れに乗って去っていく。まるで自分の役割を果たしたと言わんばかりに。
私はただ呆然と立ち尽くしていた。恐怖よりも強い感情――それは感謝だった。海を愛してきた私に、海もまた応えてくれたのだと思えた。生と死の境を揺れ動いたあの数分間、私は確かに「愛」を感じた。血と痛みと恐怖の中で、それでも胸に刻まれたのは、自然が与えてくれた温もりだった。
今も時折、あの出来事を思い返す。人の手による救助ではなかった。だが、私を救ったのは確かに何かの「手」だった。岩の感触ではなく、柔らかで大きな掌。あの瞬間から、私にとって海は単なる趣味の対象ではなくなった。
「愛し、愛されてこそ命は輝く」
陳腐な言葉かもしれない。しかし私はあの時、海にそれを教えられた。あの大きな青の揺籠に抱かれた体験は、今も私の人生を支えている。
[出典:773 :1:2009/07/12(日) 00:43:07 ID:CJ94Y43r0]