この話を思い出すと、今でも耳の奥で、乾いた小さな音が鳴る。
カチリ。
秒針がひとつ進むような音だ。けれど、次が来ない。来ないまま、心臓だけがひとつ遅れて打つ。そのずれを思い出すたび、背中が冷える。
あれは放課後の帰り道だった。薄曇りの空に電線が重なり、街灯はまだ点いていなかった。俺は近所に住む先輩と並んで歩いていた。親しいわけじゃない。ただ、たまに帰る方向が一緒になるだけの相手だった。
その日、俺は友達から聞いた変な話を思い出して、暇つぶしのつもりで口にした。
時間を研究していた物理学者の話だった。外の音も光も入らない部屋に籠もって、時計と紙と机だけで何日も過ごしていた男がいた。ある日、同僚が扉を開けると、その男は床に倒れ込んで、「今さっきまで昨日だった」と言った。机の上の時計は止まっていたらしい。
話し終えたあと、自分でもくだらないと思って笑った。だが先輩は笑わなかった。
しばらく黙って歩いたあと、先輩は前を向いたまま言った。
「止まった時計って、見つけるまで止まってないんだよね」
意味が分からず、「何それ」と返すと、先輩は少しだけ首を傾けた。
「人は時計がずれてても、そのまま今だと思うでしょ。じゃあ、止まってても同じだよ。見て、変だと気づくまでは」
そこで言葉が切れた。
俺は続きを待ったが、先輩はそれ以上何も言わなかった。ただ、歩きながら左手首をさすっていた。腕時計なんかしていないのに、その癖だけが妙に目についた。
帰ってから、その物理学者の話を検索した。出てくるのは作り話めいた書き込みばかりで、元の話も、本当にそんな人がいたのかも分からなかった。途中で馬鹿らしくなって調べるのをやめた。
数日後の夜、机に向かっているときだった。
勉強の手を止めて何気なく時計を見ると、秒針が十二のところで止まっていた。安い置き時計だったし、電池切れだと思った。そう思った瞬間、部屋が急に深くなった気がした。
外の車の音が聞こえない。
隣の部屋のテレビの音もしない。
静かになった、というのとは違った。音が遠のいたのではなく、最初から何も鳴っていなかったみたいに、世界が薄くなった。
変だと思って立ち上がろうとしたが、身体が動かなかった。指先に力が入らないのではなく、最初から自分の身体がどこまであるのか分からなくなったような止まり方だった。呼吸はできているのに、息を吸った感じがしない。目だけは開いていて、止まった秒針だけが見えていた。
そのとき、耳の奥で鳴った。
カチリ。
時計の音ではなかった。もっと近い。頭蓋の内側で、何かが噛み合ったような音だった。
次が来ると思って待ったが、来なかった。
その代わり、時間が経っているのかどうかも分からなくなった。目は乾いて痛いのに、まばたきをした記憶がない。心臓だけがときどき思い出したように打って、そのたびに耳の奥で別の音がした。鼓動と時計が、少しずつ合わなくなっていくようだった。
やがて、扉の向こうで物音がした。
ガタ、と一度だけ鳴って、部屋のドアが開いた。
母親が顔を出した瞬間、息が戻った。肺の奥が急に広がって、俺は机にしがみつくみたいに前へ崩れた。秒針はまだ止まっていた。
「どうしたの。熱あるの」
そう言われたが、返事がすぐに出なかった。母親の声が、廊下のずっと先から届いているみたいに聞こえたからだ。
その夜はそのまま寝た。怖いというより、頭がぼうっとしていた。
翌朝、時計は普通に動いていた。
それだけなら電池の接触不良で済んだのかもしれない。おかしいと思ったのは日付だった。机の横のカレンダーと、スマホの表示と、テレビの朝の情報番組の日付が全部合っているのに、自分の感覚だけが合わなかった。
昨日は火曜の夜だったはずなのに、水曜が抜け落ちていて、木曜の朝になっていた。
最初は寝ぼけているのかと思った。けれど、机の上のプリントには水曜提出と書いたメモがあり、その提出期限はもう過ぎていた。学校の連絡アプリにも、水曜に配信された連絡が既読になっていた。自分で開いた記憶はなかった。
朝食のとき、母に「昨日、何かあったっけ」と聞いた。
母は怪訝そうな顔をして、「昨日って学校行って、夜ずっと部屋にいたでしょ」と言った。それから少し間を置いて、「寝不足なら今日は早く寝なさい」と続けた。
昨日、という言い方が噛み合っていなかった。
俺が失くした一日を、母はちゃんと持っているようだった。
学校へ向かう間も、耳の奥ではときどきあの音がした。信号待ちで前の人の腕時計が目に入るたび、息が詰まりそうになった。昇降口に入ったところで、先輩が壁にもたれて立っているのが見えた。
俺の顔を見るなり、先輩は少しだけ笑った。
「開けてもらえたんだ」
意味が分からず、立ち止まった。
先輩は俺の返事を待たず、下駄箱の列に視線を移したまま言った。
「たいていは、止まったあとに気づくんだけどね。君は見たから早かった」
何を言っているのか分からない、と言おうとした。けれど声が出なかった。先輩の左手がまた手首をさすっていたからだ。そこには薄く、時計の跡みたいに円い痣が残っていた。
先輩は俺の肩を軽く叩いた。
「気をつけた方がいいよ。時計そのものが駄目なんじゃない。合ってると思ったものが、一番まずい」
そう言って、階段の方へ歩いていった。
その日の放課後、先輩は早退したと聞いた。翌日も来なかった。担任に聞いても、ただの体調不良だと言われた。けれど、そのまま先輩は学校に戻ってこなかった。
引っ越したという話もあったし、入院したという噂も出た。どれも確かなことは分からない。ただ、クラスの誰も、先輩といつ、どこで会ったのかをうまく思い出せなかった。俺だけが、帰り道で何度も話した記憶を持っていた。
それからしばらくして、先輩の家の前を通った。
表札は外されていて、郵便受けだけが残っていた。玄関脇の小窓から中をのぞくと、何もない床の上に、丸い置き時計がひとつだけ転がっていた。針の位置までは見えなかったが、なぜか動いていないと分かった。
見た瞬間、耳の奥で鳴った。
カチリ。
今度は一度では終わらなかった。
カチリ。
カチリ。
カチリ。
慌ててその場を離れたが、音はしばらく止まなかった。自分の歩幅とも、鼓動とも合わない間隔で鳴り続けた。
あれから何年も経つ。もう先輩の顔も、声も、はっきりとは思い出せない。なのに、時計が止まっているのを見ると、最初に浮かぶのはあの言葉だ。
見つけるまで、止まっていない。
だから今も、動いていない時計を見つけると、すぐには目をそらせない。先に見たことにされる気がするからだ。
この話をここまで読んだ人は、一度くらい近くの時計を確かめたと思う。
それがちゃんと動いていたなら、たぶん大丈夫だ。
ただ、確認したあとで、最後にいつ音を聞いたのかだけは、思い出さないほうがいい。
[出典:121 :本当にあった怖い名無し:2009/09/22(火) 20:50:38 ID:l6YyHbBP0]