この話を思い出すと、耳の奥で時を刻むような音が鳴る。
乾いたカチリという響きが、心臓の鼓動と重なってはずれる。その違和感に、いまだに身体が震えるのだ。
あれは放課後の帰り道だった。薄曇りの空に電線が網の目のようにかかり、街灯がまだ灯っていない時間帯。俺は先輩と並んで歩いていた。先輩といってもクラブの先輩とかではない。ただ、家が近所で、学年が上というだけの関係だ。けれども、彼は不思議と人を引き寄せる。軽い雑談をしているのに、言葉がどこか深淵へと続いていく。
その日、俺はふと思い出した。友達から聞いた妙な噂を。くだらない作り話だろうと思っていたが、先輩なら面白がるかと思って口にした。
ある物理学者が、研究中に突然一切動かなくなった……という話だ。研究対象は”時間”。彼は外界を遮断し、時計と紙と机とペンだけの部屋に籠もっていた。ところが同僚が一週間ぶりに扉を開けた瞬間、その男は倒れ込み「急に全身に力が入らなくなった」と言った。そして「昨日も君に会ったはずだ」と主張した。机の上の時計は、一週間前の時刻を指したまま止まっていたという。
俺は笑いながら話し終えた。作り話に決まっている。だが先輩は歩みを止めて、空を見上げた。しばらく黙った後で、ぽつりと口を開いた。
「君は時計がずれていたら、何時だと思う?」
先輩は淡々と語りだした。時計が数秒、数分、あるいは半日ずれていても、人はそれを”今”だと信じる。周囲の状況と照らし合わせて、ようやくずれに気づく。だが時計が完全に止まっていたらどうだろう。普通は「時間が止まった」とは思わない。物や音が動いている限り、時間は進んでいると考える。だが、外界を遮断した空間で、唯一動いているはずの時計が止まっていたら……。
「その瞬間、彼にとっては時間が本当に止まったんだ」
先輩はまるで、自分の記憶を語るように確信めいていた。俺は笑って誤魔化そうとしたが、妙に胸がざわついた。
帰宅後、あの話を検索した。どれだけ探しても、それらしい事件は出てこない。掲示板の書き込みか、誰かが作った都市伝説か。結局わからなかった。
それから数日後の夜。俺は奇妙な体験をした。
勉強机の上に置いた時計の秒針が、ある瞬間を境に動かなくなったのだ。電池切れだろうと思った。だがその時、世界の音がすっと遠のいた。家の外の車の音も、壁の向こうの家族の声も、何も聞こえない。ただ、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
立ち上がろうとしたが、身体が動かない。まるで机に縫いつけられたようだった。頭の中で、先輩の言葉が蘇る。
「時間が止まれば、動けないんだよ」
どれほどの時間が経ったのか分からない。まばたきすらできなかった。眼球の奥が焼けるように痛み出し、涙が滲んだ。
突然、ガタリと物音がした。母親が部屋の扉を開けて顔を出したのだ。その瞬間、全身が解けるように動くようになった。俺は息を荒げ、時計を振り返った。秒針は止まったままだった。
「どうしたの? 顔真っ赤よ」
母の声は遠くから響いてくるようで、まだ耳が戻っていなかった。
翌朝、恐る恐る時計を確認すると、いつの間にか動いていた。日付は――俺の記憶と合わない。確かに昨日は火曜日だったはずだが、カレンダーは水曜日を指している。母に尋ねると、当然のように「今日は木曜日よ」と返された。
俺は自分が二日分の記憶を持っていないことに気付いた。
学校へ行くと、先輩が昇降口に立っていた。俺の顔を見るなり、にやりと笑った。
「君も体験したんだね。止まった時計の部屋を」
俺は声を失った。どうして知っているのか。先輩は俺の肩を軽く叩き、耳元で囁いた。
「気を付けた方がいいよ。時計はどこにでもあるから。次は誰も扉を開けに来てくれないかもしれない」
その言葉が意味するものを、俺はいまだに考え続けている。
[出典:121 :本当にあった怖い名無し:2009/09/22(火) 20:50:38 ID:l6YyHbBP0]