これは、大学時代の知人、森川から聞いた話だ。
森川はよく霊感が強いと言っていたが、当時の自分はまともに取り合っていなかった。そういう自己申告は、だいたい自分を面白く見せたいだけだと思っていたし、怖い話をする人間ほど現実では怖がりだったりする。だが、ある日一緒に入ったリサイクルショップでの出来事だけは、いまだに冗談として片づけられない。
その店は幹線道路から一本入った、古い住宅と小さな工場が混じる地区にあった。骨董品屋みたいな佇まいで、看板には手書きで「貴金属・骨董品・電化製品・オーディオ」と書いてある。雨に打たれて色あせた壁、剥がれかけたトタンの屋根、店先に積まれた段ボール。目立つのに、誰も気にしていない感じがあった。
目的は森川の電子レンジだった。引っ越しの片づけを手伝った帰りで、彼が中古でいいから急いで欲しいと言った。自分は暇つぶしのつもりでついていった。
店内は想像以上に無秩序だった。茶碗や壺が置かれている棚の横に扇風機があり、その奥にスピーカーが積まれている。皿が本立て代わりに使われていて、古い漫画の背表紙が湿気で波打っていた。埃っぽい匂いに、防虫剤の甘さが混じる。床はきしんで、歩くたびにどこかの金具が小さく鳴った。
蛍光灯は暗く、点いたり薄れたりを繰り返していた。店主の姿は見当たらない。レジらしい場所には古い電卓と、黄ばんだ領収書の束だけが置いてある。奥からラジオが低く流れているが、言葉が聞き取れない。雑然としているのに、ものの気配だけが濃い。背中の皮膚に、薄い油膜みたいな不快感が広がった。
森川は外で看板を見上げたまま、しばらく入ってこなかった。呼び入れると、彼は一歩目から落ち着きがなく、足元を確かめるように歩いた。そして、入口のあたりで小さく言った。
「ここ、なんかいる」
苛立ちが先に出た。いかにもそれっぽい店で霊感の話を始めるのは、予定調和すぎる。どこにいるんだよと聞くと、森川は返事をせず天井を指した。そこには古い梁と配線が走っているだけで、何もない。
自分は冗談半分で笑い、電子レンジがありそうな奥へ進んだ。だが、森川はついてこない。彼の視線は、天井から少しずれた、二階へ上がる階段の踊り場あたりに固定されていた。
店の奥に、古びた木の階段が見えた。途中の壁紙だけが新しく張り替えられていて、逆にそこが不自然だった。森川が低い声で言った。
「もう見られてる」
からかわれているだけだと思い直し、確認のつもりで階段へ向かった。自分でもなぜそんなことをしたのかわからない。電子レンジを探しに来たのに、階段のほうが気になってしまった。
一段昇るたび、空気が冷たく重くなる。足裏から冷えが上がるというより、喉の奥に冷たい布を押し込まれる感じだった。階段の木は乾いているのに、手すりは妙に湿っている。蛍光灯のちらつきが背後に遠ざかる。
二階は意外にも明るかった。天井の照明が新しく、白い光がまっすぐ落ちている。だが、明るいのに、息が楽にならない。部屋の奥へ空気が吸い込まれていく感じがあった。
目に飛び込んできたのは、壁一面に並んだ着物だった。成人式や結婚式で見るような華やかな晴れ着が、ずらりと並んでいる。袖に細い棒が通され、案山子の腕みたいに横へ広げられているものもある。着物なのに、人の列に見えた。柄の色が鮮やかなほど、そこにいる気配が濃くなる。
森川が後ろで息を止めた。足音が消える。自分の耳の中で、心臓の音だけが大きくなる。
その列の間を、数歩だけ進んだ。風はないのに、どこかの袖がゆっくり揺れている。布の擦れる音が、紙やすりみたいに耳の内側をこする。視界の端で、また揺れた。奥のほう、朱色の帯が見える着物の影だ。
視線を向けた瞬間、着物の後ろから顔が覗いた。
女の顔だった。生気が薄いとか、血の気がないとか、そういう表現では足りない。顔の情報が一気に消えて、目だけが残ったみたいだった。冷たくて、激しい。敵意という言葉でも足りない。自分という存在を、この空間から消したいという意思そのものが、目に詰まっていた。
声が出ない。身体が固まる。吐き気が喉までせり上がって、呼吸が途切れた。目を逸らそうとしたのに逸らせない。あの目がこちらを固定し、床に縫い付ける。視界が薄く白くなって、遠ざかっていった。
次に気づいたとき、自分は二階の床に倒れていた。頬が冷たい板に触れている。胃がひっくり返る感覚が遅れてやってきて、咳き込むと胃液が口の奥へ上がった。森川と、いつの間にか現れていた店主らしき男が、少し離れたところで話している。言葉は聞こえるのに意味が入らない。
立ち上がろうとすると足がもつれ、膝が笑った。森川が肩を貸す。店主は何も言わず、黙って先に階段へ向かった。二階から降りる途中、背中に視線が刺さる。振り返る気にはなれなかった。あの列の奥で、袖の棒が少しだけ軋む音がした気がした。
外へ出た瞬間、我慢が切れた。店先の排水溝へ吐いた。胃の中が空になっても、身体は吐こうとする。白い胃液が薄く広がり、雨の跡と混じって流れていった。森川が背中をさすりながら、低い声で言った。
「あの目、見たんですね」
自分は返事ができなかった。返事をしたら、あの目をもう一度言葉にしてしまう。言葉にしたら、連れて帰ってしまう。そんな馬鹿げた感覚が、現実のように確かだった。
店主は店の入口に立ったまま、こちらを見なかった。森川にだけ視線を向けて、短く言った。
「上は、見ないほうがいい」
それだけ言うと、店主は引っ込んだ。閉めるでもなく、ただ暗い店の奥へ戻っていった。入口の蛍光灯がまた明滅し、そのたびに店の中の影が微妙に形を変えた。二階の窓は見えない角度なのに、そこから見られている感じだけが残った。
帰り道、森川はほとんど喋らなかった。信号待ちのたびに、彼は天井を見上げる癖みたいな仕草をした。自分が何か言うと、森川は一瞬だけこちらを見て、すぐ視線を外す。その目が、さっきの目の冷たさに似ている気がして、余計に黙った。
家に着いてからも吐き気は引かなかった。シャワーを浴びても、目の感触が皮膚に残っている。布団に入っても眠れず、気を紛らわそうとスマホをいじった。そこで、撮っていないはずの写真が一枚増えているのに気づいた。
撮影日時は、二階で倒れたあたりの時刻だった。アルバムにあるはずのない写真。サムネイルの時点で、着物の列が写っていた。指が勝手に動くみたいに、それを開いた。
二階の明るい部屋。壁一面の晴れ着。案山子みたいに袖を広げた列。そこまでは見覚えがある。問題は中央だった。列の中に、ひとつだけ見慣れた服が混じっている。自分のジャケットだ。自分のはずの身体が、着物と同じ姿勢で立っている。袖は棒で水平に固定されている。両腕を広げた案山子の形で、列に参加している。
顔は影になっていて見えない。だから安心できる、ということもない。拡大すると、影の中に白い点が二つ浮いていた。点ではない。目だ。こちらを見ている。写真なのに、視線だけが生きている。
自分は慌てて写真を閉じ、削除しようとした。だが、指が震えてうまく押せない。ようやく削除したはずなのに、アルバムを更新すると同じ写真が戻っている。ゴミ箱にも入っていない。最初からそこにいたみたいに、何食わぬ顔で並んでいる。
気のせいだと思い、スマホを再起動した。写真は残っていた。クラウド同期を切った。残っていた。アルバムの並び替えを変えても、なぜか必ず一番上に来る。撮影日時を未来に変えているわけでもない。ただ、どんな順番でも上にいる。
翌日、森川に連絡した。彼は一拍置いて、淡々と言った。
「見た人には、残る。残し方を選べない」
それ以上は喋らなかった。冗談にして笑う調子でもなかった。自分が写真のことを話した瞬間、電話の向こうで森川の呼吸が浅くなったのがわかった。
その後、しばらくして森川とは自然に距離ができた。あの店の話も、彼からは一度も出なかった。自分も出せなかった。言葉にすると、写真の目がこちらへ寄ってくる気がした。
今でも着物売り場に近づけない。晴れ着の柄の華やかさを見ると、あの二階の白い光が思い出される。撮っていない写真は、スマホを買い替えてデータ移行をしても残った。アルバムの中で、いちばん上にいる。開かなければ済むはずなのに、ふとした拍子に指が触れてしまうことがある。
そのときだけ、画面の中の目が少しだけ近い。写真のはずなのに、こちらの息づかいを測っている。
(了)