今もこうして書いていると、玄関の方からかすかな気配がする。
これは私自身の体験ではない。由美子さん――仮名だが、実在する知人から聞かされた話だ。だが聞いたその日から、私は夜になると無意識にチェーンの音を確かめている。
彼女が違和感を覚えたのは、夏の盛りに出席したお見合いパーティーだった。華やかな場を想像していたのに、集まったのはどこか湿った視線をした人ばかりだったという。誰も笑っているのに、目だけが動かない。由美子さんと友人は早々に切り上げた。ただそれだけの夜だったはずだ。
三日後、日曜の朝。友人との外出は直前に取り消され、彼女は一人で台所に立っていた。洗い物の最中、背後で「ガチャリ」と音がした。確かに、ドアノブが回る音だった。
胸が締めつけられたまま、彼女は台所にあったおたまを握り、玄関へ向かった。チェーンのかかった扉の隙間に、女の顔があった。黒ずんだ服、痩せた頬、笑っていない目。
「何をしているんですか」
声を振り絞ると、女は低く言った。
「中に、ボールが入っちゃったんですけど」
視線の先、玄関のたたきに蛍光ピンクの小さなボールが転がっていた。見覚えはない。だが確かにそこにある。
「ちょっとでいいから、チェーン外してくれませんか」
拒むと、女は一瞬だけ顔を傾けた。
「今日、出かけるはずじゃなかったの?」
その言葉に、足元が崩れた。予定を知っている理由を考える余裕はなかった。
「死ねばいいのに」
静かな声だった。
扉を閉めたあと、家の空気が変わった。重く、音が吸い込まれるように静まった。警察を呼んだが、周囲に不審者の姿はないと言われただけだった。扉も窓も、異常は確認できなかった。
それでも、玄関の前に同じ蛍光色のボールがもう一度転がっていた日、由美子さんは引っ越しを決めた。
新居に移ってからは、何事も起きなかった。少なくとも表向きは。夜中に目を覚ましたとき、チェーンをかけたはずの玄関の向こうで、誰かが立っている気配がすること以外は。
旧居の管理人から一度だけ電話があった。例の女が何度か訪ねてきたという。だが管理人は言った。
「そんな人、入居者の中にいませんでしたよ」
監視カメラの映像にも、女の姿は映っていなかったらしい。ただ、レンズいっぱいに何か黒い影が覆いかぶさる瞬間が、何度かあったという。
奇妙なのは、旧アパートの他の住人までが、家具の位置が変わる、窓際の小物が並び替えられると口にし始めたことだった。誰かが入り込んだ痕跡はない。鍵も壊れていない。
由美子さんは、あの女に名前を与えなかった。ネットでそれらしい言葉を見つけたが、口にするのをやめたという。呼べば、こちらのものになる気がしたからだ。
蛍光ピンクのボールは、新居では見ていない。だが、ある夜、スーパーの袋から同じ色の小さなゴム玉が転がり落ちた。買った覚えはない。
今も彼女は家族と暮らしている。だが夜になると必ず玄関の前に立ち、チェーンを指でなぞる。その癖は消えない。
そして私は、この話を書きながら、さっきから玄関の方を見ないようにしている。
さっき、どこかで小さく、転がる音がした気がするからだ。
(了)