大学時代、俺は小さな定食屋で出前のバイトをしていた。
谷古田屋って名前の、老夫婦がやってる店で、本格的なデリバリーというよりは「気が向いたらやってます」くらいのユルさだった。調理以外の仕事――電話応対、ルート確認、梱包、配達、クレーム処理――全部ひとり。俺の仕事。俺だけの。
配達先のほとんどは大学近くに下宿してる連中だったから、数ヶ月もすれば寮の名前も場所も覚えるし、誰が夜型で誰が偏食かなんてことまで自然とわかってくる。
その夜も、いつも通りだった。閉店間際、あと少しで「お疲れさま」と言えるタイミングで、店の電話が鳴った。
出る。無意識のテンプレ通りに挨拶して、名前と住所と電話番号を訊く。
でも、返事がない。
……黙っている相手に慣れてしまった自分が怖い。大抵は、自分の住所を思い出せずに焦ってるか、紙を探してるかのどっちかだから。
待ってると、数秒してようやく声が返ってきた。掠れた、湿っぽい声。
「山田……横町八九三番地……〇五〇の……」
ありふれた名前。どこにでもあるような住所。なのに、何かが引っかかった。
配達先は地図で見つけた。大きな鉄筋四階建ての学生マンション。遠くからは見たことがあったが、近くに行くのは初めて。
農道を原付で進むと、目的の建物が姿を現した。暗い、いや、闇そのものが固まって建物になったみたいだった。二十一時を過ぎているのに、窓のどこにも明かりが灯っていない。死んだ街の墓標みたいなマンション。
そして、そこでやらかした。部屋番号を聞き忘れていた。
焦って携帯を取り出し、メモに控えた番号にかける。普通なら、知らない携帯からの電話なんて出ないのに、ワンコールも鳴らないうちに出た。
「もしも……」
「管理人室ですよ」
あまりにも察しが良すぎる。俺が何を訊くかを知っていたみたいな声色だった。
戸を開けると、廊下は暗闇の奥へ続いていた。誰もいない。音もない。世界が死んでるみたいだった。
ポケットの中の伝票を強く握りしめながら、管理人室の戸をノックする。
ガラガラ、と音を立てて引き戸が開いた。
光が、漏れた。暖色の、ぼんやりとした光。その奥にいたのは、紙のように薄い男だった。背が高くて、骨ばってて、だけど礼儀正しくて。
「遅い時間に、すみません」
俺はなぜか安心して、つい冗談を言った。
「ここまで来るの、ちょっとした肝試しですよ」
受け渡しも、支払いもスムーズだった。お釣りも渡したし、金もちゃんと受け取った。そう思っていた。
店に戻り、伝票を照らし合わせて売上を確認していたとき、違和感が膨れ上がった。
足りない。二千円以上。まるまる、あの山田の注文分が、消えていた。
一枚札をどこかに落としたとかじゃない。伝票ごと、存在ごと、金が消えていた。
それを報告すると、店長は学生寮の名簿と地図を取り出し、確認を始めた。
「その寮、もうないぞ?」
そんな言葉が出てきたのは、それからしばらく経ってからだった。
数日後のシフト。店長は何気なく言った。
「山田さんから電話きたら、やんわり断れよ」
気味が悪い、と煙草を吸いながら店長は言った。
五、六年前まで、そのマンションは常連の老人が所有してた学生寮だった。
けれど、その老人が死んでから、管理者はいなくなり、寮は閉鎖された。
それでも気になった店長は、俺が配達した翌日、昼間にそのマンションを訪ねたらしい。人の気配はなかった。廊下も、部屋も、腐ったような匂いで満ちていたという。
だけど――
管理人室の前に立ったとき、扉の奥から「どうぞ」と声がしたらしい。
何度も。
戸を開けると、中は荒れ果てていた。雑草、埃、崩れかけた家具。
だが、店長は見てしまった。俺が配達したであろう弁当の中身が、床にぶちまけられているのを。封すら切られていない。
そのとき、なぜか俺の背中がゾワッとした。自分の意思とは関係なく、呼吸が浅くなっていった。
あの管理人室で、俺は確かに、言葉を交わした。
受け渡しをして、冗談を言って、笑った。
だが、それは誰だった?
電話番号にかけても、もう繋がらなかった。俺の発信履歴も消した。
それから一ヶ月後。
再び「山田」から電話があった。
電話を取る手が震えるのを堪えながら、「山田様ですね」と復唱した瞬間、店長が俺に「替われ」とジェスチャー。
出前サービスは停止していると、店長は告げた。
そのときの店長の顔、今でも忘れられない。恐怖、ではなかった。もっと違う、焦燥のような、取り憑かれたような表情。
電話を切ったあと、店長が言った。
「今から店に来る、ってさ」
その夜、「山田」は現れなかった。
でも、それを最後に、俺はもう無理だった。
一年半続けたバイトを辞め、都市部のアパートに引っ越した。
あの店にも、谷古田屋にも、二度と戻らなかった。
もうあの番号にも、あの道にも、戻ることはない。
でも時々――夜中の二時すぎ、電源を切ったはずのスマホが震える。
「管理人室です」
……そんな声が、頭の中にだけ響くことがある。
(了)