彼女が大学生だった頃に付き合っていた男の話を、別れてから何年も経ってから聞いた。
彼のことを、彼女は最後まで「目が悪かった人」と呼んでいた。視力の話ではない。検査をすれば両目とも一・五は出る。眼鏡もコンタクトも必要なかった。ただ、見えているはずのものを、まったく別のものとして受け取ってしまう癖があった。
たとえば、夜道を歩いていると急に立ち止まり「あ、倒れてる」と言う。驚いて見れば、道路脇に落ちているのは毛布だった。商店街で突然深々と頭を下げ「先生、すみません」と謝るので理由を聞くと、電柱が小学校の担任に見えたと言う。集合住宅の前で二階を見上げ、嬉しそうに手を振ることもあった。「知り合い?」と聞けば「あの子、さっきから手を振ってる」と言うが、そこにあったのは窓辺に吊されたぬいぐるみだった。
彼女は最初、それを天然とか冗談の一種だと思っていた。だが彼の表情はいつも真剣で、言い訳めいた軽さがなかった。ショッピングモールで、突然「あ、同級生だ」と言って走り出したことがある。すぐ戻ってきて「ごめん、店の前のポスターだった」と肩を落とした。そのとき彼女は冗談半分で「わざとやってない?」と聞いたが、彼ははっきり否定した。「違う。本当にそう見えた」
決定的だったのは、数人でキャンプに行ったときのことだ。
彼が運転し、友人が助手席、後部座席に彼女ともう一人の女性が乗っていた。山道で道に迷い、ナビも携帯も役に立たなくなった。民家が点在しているのを見て、誰かに道を聞こうという話になった。車をゆっくり走らせながら周囲を見回していると、彼が急に声を上げた。「今、女の人が立ってた」
車を止めるや否や、彼は降りて来た道を走って戻っていった。残された三人は顔を見合わせた。誰も何も見ていない。後部座席から彼の様子を眺めていると、案の定、彼は途中で立ち止まり、辺りを見回してから戻ってきた。「ごめん、看板だった」
冗談混じりに責めていると、近くの家から出てきた老人に声をかけられた。道を聞くと、この先は集落しかないから戻って右に行けと言う。その通りにUターンし、来た道を戻ることになった。
そのとき彼女は、彼が女の人と見間違えたという看板が気になり、車窓に顔を寄せて確認した。
そこにあったのは、葬式の案内看板だった。名前と日付が薄れ、板も文字も風雨に晒されたまま、撤去されずに残っている。最近立てられたものには見えなかった。彼女は言いようのない気味悪さを覚えたが、その場では何も言わなかった。
それから半年ほどで二人は別れた。理由を聞かれても、彼女はうまく説明できなかった。ただ、一緒にいると落ち着かなくなった。視線の先に、彼女には見えない何かが常に存在している気がしてならなかった。
別れる直前、最後の出来事があった。
街を歩いていると、彼が突然「あ、〇〇おばさんだ」と言って走り出した。彼女はその背中を見送りながら、胸の奥に引っかかる感覚を覚えた。〇〇おばさん。確か、少し前に亡くなったはずだ。彼の実家に泊まっていたとき、急に電話が来て帰った夜があった。嫌な記憶が連鎖するように浮かんだ。電柱を先生と呼んだあのときの先生。ポスターと間違えた同級生。どれも、後から聞けばもうこの世にいない名前だった。
彼女は立ち尽くしたまま、彼が戻ってくるのを待った。彼はいつものように笑って「また見間違えたみたい」と言った。
その笑顔を見て、彼女は確信したわけではない。ただ、これ以上一緒にいると、自分の側の感覚まで狂ってしまう気がした。何が見えていて、何が見えていないのか、その境目が曖昧になる予感があった。彼女はその場で別れを告げた。
数年後、彼女は別の街で暮らしている。
ある夕方、駅前の通りで、ふと立ち止まった。横断歩道の向こうに、人が立っているように見えた。喪服のような黒い影で、誰かを待っているようだった。目を凝らすと、それは工事現場の仮囲いに貼られた古い紙だった。剥がれかけて、風に揺れているだけの紙。
胸をなで下ろしながら歩き出したとき、背後で声がした気がした。誰かが、自分の名前を呼んだような気がした。
振り返っても、誰もいなかった。
ただ、通りの角に立てられた小さな看板が、こちらを向いていた。いつからあったのか、彼女には思い出せない。
[出典:781 :本当にあった怖い名無し:2025/07/18(金) 06:37:11.36ID:CKZQsWGn0]