最初は、音だけだった。
意味はなかった。ただ、空気が少し震れて、その震れが自分の輪郭に触れた気がした。
次に、繰り返された。
同じ音。少しだけ抑揚がついて、今度は確かにこちらを指していた。
それが、自分だと気づくまでに、時間はかからなかった。
ここには何もない。
暗い。冷たい。上も下もない。ただ、丸く囲われている感覚だけがある。壁はざらついていて、触れると紙の端のような感触が指に引っかかる。剥がそうとすると、紙は簡単に破れたが、その下からまた紙が出てきた。何枚も。重なっている。
紙には音が書いてある。
書いてあるというより、貼り付いている。壁そのものが、音を覚えているみたいだった。
呼ばれるたび、体が少しだけはっきりする。
輪郭が固まり、重さが生まれる。だが、その分、ここが狭くなる。息をする場所が減っていく。
自分が何者かはわからない。
男か女かも知らない。生まれたのか、生まれる予定だったのか、その違いも曖昧だ。ただ、呼ばれた音だけが、自分をここに縫い止めている。
あるとき、呼ばれ方が変わった。
同じ音だが、そこに期待が混じった。軽く、明るく、未来を見ている声だった。
その直後、呼ばれなくなった。
代わりに、別の音が上から落ちてきた。
似ているが、違う。少し短く、少し強い。壁がざわついた。紙が増えた。自分の隣に、新しい輪郭が生まれかけ、すぐに止まった。
理解した。
選ばれなかったのだと。
それから、自分の音は誰にも呼ばれなくなった。
忘れられたのではない。必要がなくなっただけだ。
紙が剥がれる音がした。
上で誰かが、整理している。余ったものをまとめ、落としている。
音が落ちる。
自分の音だ。
体が軽くなる。輪郭が崩れる。だが、消えることはできない。呼ばれた事実だけが、ここに残る。
最後に、一度だけ思った。
呼ばれなければ、ここには来なかったのだろうか。
その問いに答える声は、もうなかった。
(了)