二〇〇五年の夏、俺は底なしの暗闇に沈んでいた……
午前零時を回っても終わりを知らない仕事の修羅場、気がつけば書類の山に埋もれ、手が震えていた夜もあった。帰路を急ぐ最中、赤信号を見落として交差点に突っ込んだ日には、愛車のガラスが砕け散り、凍りつく寒さに声も出せず路肩に横たわっていた。なんの因果か隣県での宿泊先では、誰かの悪戯でタイヤに鋭い傷が刻まれるという不気味な歓迎を受けた。
体は知らず知らず蝕まれ、原因不明の発熱と嘔吐が三週間ほど続き、十キロ近くの体重を一気に奪われた。鏡を覗き込むたび、別人のように痩せ衰えた自分の顔が黒ずんで見えた。だが何よりも堪えたのは、父の急逝だった。癌が静かに進行し、一週間前までは何事もなかったと知った朝、茶碗を握りしめた母のすすり泣きが、胸の中で何度も反響した。
すべてを投げ出して逃げ出したい衝動に駆られ、夜の独り言としてつい呟いた。「……お祓いでも受けてみるか」
その瞬間、連れの声が思いのほか強く響いた。「そうしよう!」
かつて心霊番組に心躍らせた頃の好奇心は影を潜め、祝詞のひと節に救いを求める自分が情けなくも頼もしくもあった。だがどんなに真剣に祈っても、目に見えぬ世界には一歩も踏み込みたくない自尊心がまだ息づいていた。
連絡嫌いの俺に代わり、連れがメールで地元から少し離れた古社に予約を入れてくれた。参道を歩くと、夕暮れの蝉時雨が足音をかき消し、錆びた石灯籠の隙間から緑青を吹いた苔が顔を覗かせている。線香の煙と湿った土の匂いが混ざり合い、境内全体が異界の入口にも思えた。
すでに八人ほどの午後組が集い、簡素な待機所には屋根だけが支えられ、椅子が無造作に並べられている。袴姿の若い神職が不慣れな足取りで俺らを誘導し、その背中に「本当に大丈夫か」という問いが浮かんだ。
ほどなく中年の参加者が勇気を振り絞って尋ねた。「神職さん、幽霊とか見えたりするんですか?」辺りが一瞬静まり返るなか、神職は首を小さく振った。「見えはしませんが……何か気配を感じることは、ないでもないです」照れ笑いを浮かべたその表情に、妙な緊張が場を包んだ。
背後の本殿からかすかに響く祝詞を聴きながら、神職の口元が再び動いた。「実は以前、勤めていた大きな神社で狐のお面が頻出する不思議な出来事がありまして……」声が低くかすれ、俺と連れは互いに身を乗り出した。絵馬掛けの一角が無数の小狐面で埋め尽くされ、夜毎に家族連れが仮面を被って現れたという。聖域に許容範囲を超えた何かが訪れた証として、急遽別の神社へ案内された──そんな話に背筋がぞくりとした。
その刹那──待機所の入り口にそびえる大きな木が、『シュ、シュ、シュ』と唸り声を立てながら揺れ始めた。視線を巡らせると、車椅子に深い黒衣を纏う老婆と、その隣に立つ五十歳前後の男が、言葉もなく木を見上げている。やがて木は『ビュン!ビュン!ビュン!』と激しく振れ出し、根元から枝先までが一心に暴れる。胸が締めつけられ、呼吸が止まりかけた。
袴姿の神職が躊躇なく駆け出し、老婆に声をかける。「醍醐様でしょうか 大変恐縮ですが、ここは聖域故に、お戻り願えませんでしょうか」老婆と男は軽く頷き、無言で去っていった。そして木の暴走は、ぱたりと止まり、散った葉だけが静かに舞い降りた。
鼓動が次第に緩む中、儀式は再開された。祝詞の一語一語が耳に染み込み、体内に染み渡っていくようだった。翌日には驚くほど体調が回復し、不運の連鎖はぴたりと止まった。まるで祝詞に封じられた何かの扉が閉じられたかのようだった。
結婚後も、連れと酒を酌み交わすたびにあの木の唸りと狐面の話が酒の肴となる。洒落怖を覗き込み、ネットに散らばる体験談を探し続けても、あの聖域への足は凍りついたままだ。
そんなある日、新居の玄関先に無造作に置かれた段ボール箱を見つけた。開けてみると、古色蒼然とした狐のお面が、一本の紐に吊るされてこちらを見下ろしていた。送り主の名も住所もなく、ただ紐の結び目が微かに震えている……あの聖域は、まだ俺から離れていなかったのかもしれない……
[出典:986 :本当にあった怖い名無し:2011/12/03(土) 18:36:59.74 ID:vwl2695MO]