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短編 山にまつわる怖い話 n+2026

声を覚える nc+

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その山は、会社の所有地だった。

境界杭も測量図も揃っている。立ち入り禁止の札も立っている。だが、地元では昔から「あの山は人のものじゃない」と言われていた。誰が言い始めたのかは分からない。ただ、木を伐る時期になると必ず誰かが体調を崩したり、道具を忘れたり、理由のない遅れが出たりした。

友人は工務店勤めで、材木の確認に一人で山へ入った。春先で、雪はもう残っていないはずの時期だった。だが、谷筋にはまだ白いものが溜まり、踏み固められた古い雪が、腐った氷のように鈍く光っていた。

木の太さを測り、リストと照らし合わせる。予想以上に育っている。伐り時だ。頭の中で数字が転がり、足取りも軽くなった。気づけば、意味もない鼻歌が口からこぼれていた。昔から癖だった。山に入ると、勝手に声が出る。

作業を終え、下山にかかった頃だった。

背後から、歌が聞こえた。

最初は風の音かと思った。だが、旋律がはっきりしすぎている。しかも、自分がさっきまで口ずさんでいた歌だった。音程も、癖も、息継ぎの間も同じだ。

立ち止まり、耳を澄ます。

確かに後ろから近づいてくる。足音はない。歌だけが、距離を詰めてくる。

反射的に茂みに身を隠した。身体を縮め、息を殺す。歌声は迷わず道を下り、彼の前を通り過ぎていった。姿は見えない。ただ、声だけが、そこにいるはずの位置を正確になぞるように移動していく。

追い越される瞬間、寒気が走った。

声は、自分よりも少し機嫌が良さそうだった。

やがて歌が遠ざかり、完全に聞こえなくなった。数秒、いや数分、動けなかった。ようやく立ち上がり、一歩踏み出した瞬間だった。

耳元で、誰かが囁いた。

「なかなか、上手いじゃないか」

悲鳴も出なかった。ただ、身体が勝手に斜面を転がり落ちた。土と落ち葉にまみれながら、何度も振り返ったが、何も見えなかった。だが、背中に視線だけが貼りついている感覚は、山を下りきるまで消えなかった。

その話を聞かされた夜、祖父は黙って火鉢に炭を足した。

祖父は昔、国鉄で駅長をしていた。戦後間もない頃、中国山地の小さな無人駅を任されていたという。冬になると雪が深く、最終列車を見送った後は、駅舎の点検を済ませてから、山道を歩いて帰るしかなかった。

ある晩、雪は静かに降っていた。音を吸い込むような粉雪だった。歩き慣れた道のはずなのに、途中から風が変わった。雪が舞い上がり、視界が白く塞がれた。

前から、人影が現れた。

着物姿の女だった。雪の中を、足跡も残さず歩いてくる。祖父は声をかけた。「そんな格好じゃ凍えるぞ」。女は足を止め、にこりと笑った。

「お気遣い、ありがとうございます」

それだけ言って、祖父の横をすり抜けた。すれ違った瞬間、女の身体から、冷たい風が吹いた。雪の匂いと、どこか懐かしい土の匂いが混じっていた。

数歩進んでから、祖父は振り返った。女の姿はなかった。吹雪も、いつの間にか弱まっていた。

家に帰ると、曾祖母が何も聞かずに湯を出した。祖父はその夜のことを話した。曾祖母は、しばらく黙ってから言った。

「山で声を出すな。歌うな。あれは、人の真似をする」

理由は教えてくれなかった。ただ、それ以来、祖父は山道で一度も歌わなかった。

友人の話を聞き終えた祖父は、最後にこう言った。

「褒められたか。じゃあ、もう覚えられたな」

意味は分からなかった。だが、その夜、窓の外で風が鳴った時、どこかで誰かが、かすかに歌をなぞっているような気がした。

[出典:464 :元登山者:2007/04/15(日) 15:16:38 ID:t9yPDfTo0]

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