これは、私が中学三年生のとき、家族と出かけた隣町の大型スーパーでの出来事だ。
何気ない日常の一コマとして始まった買い物だったが、あの日の異様な気配は今でも忘れられない。
スーパーに着いてから、私はひとりで文具売り場へ向かった。お気に入りのノートやペンを手に取りながら陳列棚の間を歩いていると、左手の方から何者かが近づいてくるのが視界の端に映った。何か邪魔になるかと商品棚側に少し身を寄せたのだが、数秒後、背中に妙な衝撃が走った。振り返ると、人が私のすぐ後ろを通り過ぎていくのが見えた。
棚の間には私とすれ違えるだけの幅は十分にあった。それなのに、なぜわざわざぶつかってきたのか。少し不安を覚えたが、気のせいだと思うことにして、その場を後にした。
次に足を運んだのは、CD売り場だった。気になるCDを手にとっては眺め、曲目リストを確かめて戻す――そんなことを繰り返していると、ふと向かいの棚の向こうに誰かが立っているのに気づいた。棚は両面にCDが並べられていて、向こう側に立つ人もCDを選んでいるのだろうと考え、気にしなかった。
だが、時間が経ってもその人影は微動だにしない。少し嫌な気分がした。意識しないよう努めながらも顔を上げると、向こうに立っていたのは男だった。そして、彼はまっすぐにこちらを見ている。
目が合った瞬間、私の心臓が跳ねた。だが、普通なら気まずさから目をそらすだろうに、男はまったく動じず、まばたきすらせずに見つめ続けている。その視線に耐え切れず、私の方が目を逸らした。心臓がバクバクと音を立てている。何なんだ、この男は?
怖くなってその場を離れようと、別の棚に向かいCDを手に取ったふりをしたが、数分後、また向かい側に男の姿が現れた。しかし、今度はCD棚ではなく、そのすぐ外の通路に立っている。通路にはCDなど置かれていない。にもかかわらず、男はじっと私を見つめ続けている。
その瞬間、文具売り場で背中にぶつかってきたのもこの男だったのだと悟った。確かにあの時、チラリと見えた後ろ姿と服の色が似ていた気がする。ずっと、私の後をつけてきているのか?不快感よりも強い恐怖が込み上げてきた。ぞっとする感覚を抑えながらも、私には逃げる以外に思いつかなかった。
走って逃げ出したい衝動を抑えつつ、なるべく平然を装ってCD売り場を後にした。何度も後ろを確認しながら歩いたが、その男の姿は見えなくなっていた。ホッとしたのも束の間、「やはり勘違いだったのか」と気を緩め、家族を探しに行こうとエスカレーターに乗り込んだ。
上りエスカレーターに乗っているとき、ふと視界の先に異様な存在が目に入った。ちょうど上りと下りのエスカレーターが交差する場所で、またあの男と目が合ってしまったのだ。彼も私に気づいた瞬間、血走ったような目つきでこちらを見つめている。
「やばい!」と思った次の瞬間、男は下りエスカレーターを逆走し始めた。すさまじい速度で、こちらに向かってくる。勘違いなんかじゃなかった。あの男は本気で私を追いかけている。
心臓が破裂しそうなほど鼓動が速くなり、息が詰まりそうになる。私も全力でエスカレーターを駆け下りた。頭の中で「早く、早く家族に会いたい!」と祈り続ける。運が良かったのか、ちょうどエスカレーターを降りたところで家族と合流できた。
だが、あまりに焦りすぎていたせいか、男に追われていることを家族に伝えることができず、「早く帰ろう」とそれだけしか言えなかった。どうやら買い物も終わっていたようで、家族はそのまま「じゃあ、帰ろうか」と車へ向かい始めた。
駐車場へ向かう道すがら、私の心はまだ警戒していた。男はエスカレーターを逆走した。ならば、同じフロアにいるかもしれないし、ひょっとすると近くに潜んでいるかもしれない。いつ彼が現れるかわからない。駐車場へ急ぎながらも、ちらりと後ろを確認せずにはいられなかった。
そのとき、背後から声がした。
「ひとりじゃないのか」
低く、不気味な声だった。振り返る勇気はなかった。ただ、胸の奥で何かが静かに凍りついていくのを感じた。男はどこかからこちらを見ている、そしてひとりでなくなったことで何か計画が崩れたのだろうか――。それとも、ただの気のせいにすぎないのか。
その日の帰り道、スーパーの明かりが次第に遠くなり、私の心の中に残ったのはただ静かに冷えた感覚だけだった。