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数を数えるな rw+2,765-0217

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同僚が酒の席で漏らした話を聞いた瞬間、場の空気が静かに薄くなった気がした。

「……あれはな、闇とか、そういう言い方じゃ足りない」

そう言ったのはNだ。元警察官だと本人は言う。ただ、その“元”が事実かどうか、いま思えば確信が持てない。

Nは東京都内の古い署に配属された、と語った。東大を出て本庁入りしたキャリアで、将来を嘱望されていたとも言った。だが、それも酒の席での自己申告にすぎない。履歴書を見たことはない。

ある夜、署長に飲みに誘われたという。庁舎の明かりが落ちていく頃、署長は自席に戻り、「最後に一本だけメールを打つ」と言った。Nは手持ち無沙汰で自分の机に戻った。

そのとき、背後から重い音がした。

机の上に分厚いバインダーが置かれていた。誰が置いたのかは見ていない。署長が戻った気配もなかったという。

表紙には黒いマジックで、ただ一言。

――雨宮

名字なのか分類名なのか、分からない。ただそれだけが書かれていた。

Nはページを開いた。刑事調書、現場写真、鑑識報告。形式は整っている。だが妙だったのは、写真の数だった。調書に記載された事件数と、写真の枚数が合わない。

最初の事案は、窃盗で逮捕された女の記録だった。取調室で暴れ、数名で取り押さえたとある。添付写真が一枚。

女の顔が写っている。

Nはそこまで話すと、言葉を切った。私は黙って続きを待った。

「……顔がな、説明できないんだ」

鼻と口の位置が、微妙にずれている。目の間隔が左右で違う。笑っているのに、口角が上がっていない。粘土細工のように、押しつぶしてから無理に整えたような歪みだったという。

だが、Nが本当に怖がっていたのはそこではなかった。

写真の右下。取調室の壁際に、もう一つ顔が写っていた。

調書には、女一名と警察官三名とある。写真には、四人目がいる。

誰の顔かは判別できない。輪郭だけがぼやけている。だが、目だけははっきりと写っている。

その目は、カメラではなく、撮影者の背後を見ていた。

Nは次のページをめくった。

そこに同じ写真があった。構図は同じ。だが、写っている人数が違う。五人になっていた。

さらに次のページ。六人。

ページを進めるごとに、壁際の“何か”が増えていく。

最後の写真では、取調室の壁が見えなくなっていたという。顔、顔、顔。すべて同じ歪んだ女の顔で埋め尽くされていた。

調書は一件分しかない。だが写真は増え続けていた。

Nはそこでページを閉じた。喉が渇き、署長を探そうと顔を上げた。その瞬間、デスクの上にあったはずのバインダーが消えていた。

署長はいつの間にか背後に立っていた。

「読むなとは言っていない。ただ、数を数えるな」

そう言ったという。

飲み屋でNは、そこまで語って黙った。私は冗談めかして聞いた。

「で、雨宮って何なんだ」

Nは卓上の紙ナプキンにペンで何かを書いた。

雨宮

そして、上の一画を指でなぞった。

「増えるんだよ」

意味が分からなかった。

Nは続けた。

「事件は一件だ。だが、記録が増える。写真が増える。目撃者が増える。証言が増える。気づいたやつから、数え始める」

私は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。

「都内の他の署にもあるらしい」とNは言った。「同じ名前のファイルが。だが中身は違う。増えるものが違う」

それが最後だった。

後日、私はNに連絡を取ろうとした。電話は繋がらなかった。勤務先だという会社に問い合わせると、そんな社員はいないと言われた。

共通の知人に確認した。Nという人物を知っているかと。

「誰だそれ」

そう返された。

酒席にいたはずの面々も、あの夜の話題を覚えていない。私だけが、妙に鮮明に記憶している。

思い出そうとすると、写真のことばかり浮かぶ。壁際に増えていく顔。目だけがこちらを見ていた。

あのとき、私は写真を見ていない。Nの話を聞いただけだ。

それなのに、細部まで思い出せる。

鼻と口の距離。左右で違う目の高さ。右下から増え始めたこと。六枚目で壁が消えたこと。

私は数を数えてしまっている。

最近、夢を見る。机の上に分厚いバインダーが置かれている夢だ。表紙には何も書かれていない。だが、開く前から分かる。

中に写真がある。

一枚目は、居酒屋の座敷だ。酒瓶と皿。その奥に、話している男がいる。Nだ。

二枚目。同じ構図。私が写っている。

三枚目。座敷の壁際に、知らない顔がある。

四枚目。五枚目。

目だけが、こちらを見ている。

夢から覚めると、決まって喉が乾いている。洗面所に立ち、鏡を見る。

何もおかしくない。顔も増えていない。

ただ、最近気づいたことがある。

写真の中で増えていたのは、女の顔だけではなかった。

撮影している“誰か”の位置が、少しずつ近づいていた。

最初は取調室の隅。次は机の横。最後は、女のすぐ背後。

夢の中でも同じだ。

居酒屋の入口。柱の陰。私のすぐ横。

いまは、どこに立っているのか。

考えないようにしている。数を数えないようにしている。

だが、ふとした瞬間に思う。

この話を、いま読んでいる人は何人いるのかと。

そして、そのうち何人が、数を数え始めるのかと。

(了)

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