同僚が酒の席で漏らした話を聞いた瞬間、場の空気が静かに薄くなった気がした。
「……あれはな、闇とか、そういう言い方じゃ足りない」
そう言ったのはNだ。元警察官だと本人は言う。ただ、その“元”が事実かどうか、いま思えば確信が持てない。
Nは東京都内の古い署に配属された、と語った。東大を出て本庁入りしたキャリアで、将来を嘱望されていたとも言った。だが、それも酒の席での自己申告にすぎない。履歴書を見たことはない。
ある夜、署長に飲みに誘われたという。庁舎の明かりが落ちていく頃、署長は自席に戻り、「最後に一本だけメールを打つ」と言った。Nは手持ち無沙汰で自分の机に戻った。
そのとき、背後から重い音がした。
机の上に分厚いバインダーが置かれていた。誰が置いたのかは見ていない。署長が戻った気配もなかったという。
表紙には黒いマジックで、ただ一言。
――雨宮
名字なのか分類名なのか、分からない。ただそれだけが書かれていた。
Nはページを開いた。刑事調書、現場写真、鑑識報告。形式は整っている。だが妙だったのは、写真の数だった。調書に記載された事件数と、写真の枚数が合わない。
最初の事案は、窃盗で逮捕された女の記録だった。取調室で暴れ、数名で取り押さえたとある。添付写真が一枚。
女の顔が写っている。
Nはそこまで話すと、言葉を切った。私は黙って続きを待った。
「……顔がな、説明できないんだ」
鼻と口の位置が、微妙にずれている。目の間隔が左右で違う。笑っているのに、口角が上がっていない。粘土細工のように、押しつぶしてから無理に整えたような歪みだったという。
だが、Nが本当に怖がっていたのはそこではなかった。
写真の右下。取調室の壁際に、もう一つ顔が写っていた。
調書には、女一名と警察官三名とある。写真には、四人目がいる。
誰の顔かは判別できない。輪郭だけがぼやけている。だが、目だけははっきりと写っている。
その目は、カメラではなく、撮影者の背後を見ていた。
Nは次のページをめくった。
そこに同じ写真があった。構図は同じ。だが、写っている人数が違う。五人になっていた。
さらに次のページ。六人。
ページを進めるごとに、壁際の“何か”が増えていく。
最後の写真では、取調室の壁が見えなくなっていたという。顔、顔、顔。すべて同じ歪んだ女の顔で埋め尽くされていた。
調書は一件分しかない。だが写真は増え続けていた。
Nはそこでページを閉じた。喉が渇き、署長を探そうと顔を上げた。その瞬間、デスクの上にあったはずのバインダーが消えていた。
署長はいつの間にか背後に立っていた。
「読むなとは言っていない。ただ、数を数えるな」
そう言ったという。
飲み屋でNは、そこまで語って黙った。私は冗談めかして聞いた。
「で、雨宮って何なんだ」
Nは卓上の紙ナプキンにペンで何かを書いた。
雨宮
そして、上の一画を指でなぞった。
「増えるんだよ」
意味が分からなかった。
Nは続けた。
「事件は一件だ。だが、記録が増える。写真が増える。目撃者が増える。証言が増える。気づいたやつから、数え始める」
私は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「都内の他の署にもあるらしい」とNは言った。「同じ名前のファイルが。だが中身は違う。増えるものが違う」
それが最後だった。
後日、私はNに連絡を取ろうとした。電話は繋がらなかった。勤務先だという会社に問い合わせると、そんな社員はいないと言われた。
共通の知人に確認した。Nという人物を知っているかと。
「誰だそれ」
そう返された。
酒席にいたはずの面々も、あの夜の話題を覚えていない。私だけが、妙に鮮明に記憶している。
思い出そうとすると、写真のことばかり浮かぶ。壁際に増えていく顔。目だけがこちらを見ていた。
あのとき、私は写真を見ていない。Nの話を聞いただけだ。
それなのに、細部まで思い出せる。
鼻と口の距離。左右で違う目の高さ。右下から増え始めたこと。六枚目で壁が消えたこと。
私は数を数えてしまっている。
最近、夢を見る。机の上に分厚いバインダーが置かれている夢だ。表紙には何も書かれていない。だが、開く前から分かる。
中に写真がある。
一枚目は、居酒屋の座敷だ。酒瓶と皿。その奥に、話している男がいる。Nだ。
二枚目。同じ構図。私が写っている。
三枚目。座敷の壁際に、知らない顔がある。
四枚目。五枚目。
目だけが、こちらを見ている。
夢から覚めると、決まって喉が乾いている。洗面所に立ち、鏡を見る。
何もおかしくない。顔も増えていない。
ただ、最近気づいたことがある。
写真の中で増えていたのは、女の顔だけではなかった。
撮影している“誰か”の位置が、少しずつ近づいていた。
最初は取調室の隅。次は机の横。最後は、女のすぐ背後。
夢の中でも同じだ。
居酒屋の入口。柱の陰。私のすぐ横。
いまは、どこに立っているのか。
考えないようにしている。数を数えないようにしている。
だが、ふとした瞬間に思う。
この話を、いま読んでいる人は何人いるのかと。
そして、そのうち何人が、数を数え始めるのかと。
(了)