あれは、四歳のころだった。
時間は覚えていない。ただ、夜が完全には明けきらず、朝とも呼べない灰色の薄闇だった。窓の外は墨を流したように暗く、部屋の中も輪郭だけが浮かび上がっている。世界がまだ固まりきっていない、あの曖昧な時間帯だった。
気づくと、俺はベッドの上に立たされていた。
目の前には母がいる。
「なんであんなことしたの」
低く、抑えた声だった。怒鳴ってはいない。だが逃げ場がない。
何のことか分からない。目が覚めたばかりで、夢の残骸がまだ頭にへばりついている。ただ、反射的に「ごめんなさい」と言った。
許されなかった。
「どうして」
「今、何時だと思ってるの」
「自分で分からないの」
同じ問いが、少しずつ言い回しを変えながら繰り返される。言葉が刃物のように鋭いのではない。縄のように、じわじわと締め上げてくる。
普段から母は叱ると長い人だった。謝っても終わらない。黙っていても終わらない。だから最初は、いつもより少し強いだけだと思っていた。
だが、違和感があった。
静かすぎる。
これだけ責め立てられているのに、隣で寝ているはずの父が起きてこない。二段ベッドの下で眠っている妹も、寝返りひとつ打たない。家そのものが息を止めている。時計の音も、遠くの車も、何もない。
音がないのに、目の前の声だけがはっきりしている。
そこで初めて気づいた。
俺は、まだ一度も母の顔を見ていない。
そこにいると分かる。声もする。距離も近い。だが、顔だけが闇に沈んでいる。輪郭が結ばれない。
胸の奥が冷えた。
次の瞬間、頬に衝撃が走った。
ばちん、と乾いた音。
痛みより先に、触れた感触が異様だった。指先が異様に細く、爪が長い。氷のように冷たい。
母は爪を伸ばさない。割れるからと、いつも短く切っていた。間違えるはずがない。
これは母じゃない。
そう思った瞬間、声が歪んだ。
「なんで殺したの」
「どうして殺したの」
「どうして死んだの」
問いは怒りではなく、恨みだった。泣き声のように湿っている。
動けない。足も、腕も、喉も。息だけが浅くなる。
「悪いと思ってるの」
顔が近づく。
髪は乱れ、肌は青白い。目がない。あるべき場所が、暗い穴になっている。そこに何もないのに、見られている感覚だけがある。
視界が弾け、意識が途切れた。
――気がつくと、同じ場所に立っていた。
今度は朝だった。
光が部屋を満たしている。輪郭がはっきりしている。目の前にいるのは、間違いなく母だった。
「どうしてあんなことしたの」
「どこ行ってたの」
同じ問いだ。だが声は現実のものだった。
俺は聞いた。何をしたのか、と。
母は一瞬黙り、言った。
夜中の二時ごろ、俺は起き上がり、両親の前を通り、玄関を開けて外へ出て行ったらしい。「遊びに行ってくる」と言って。
慌てて探したが見つからず、家に戻ると俺はベッドで眠っていたという。起こしても反応せず、そのまま朝まで寝かせた。
だから怒っているのだ、と。
俺には記憶がない。
夢遊病だったのかもしれない。それで片づけることはできる。
だが、あの声だけは説明がつかない。
殺した、と言われた。
誰を。
四歳の俺が。
あの夜、俺は本当に外に出ていたのか。それとも、外から何かが入ってきたのか。
時折、眠りに落ちる直前、耳の奥であの問いがよみがえる。
「悪いと思ってるの」
思い出そうとすると、記憶の端が白く欠ける。
もしかすると、欠けているのは記憶ではないのかもしれない。
あの夜、本当に目がなかったのは――
どちらだったのだろう。
[出典:529 本当にあった怖い名無し 2006/04/18(火) 13:58:41 ID:TRB6zpuJ0]