あれは、四歳くらいのころだった。
時計の針がどこを指していたのか覚えていない。ただ、明け方の四時くらいだったのだろう。真夜中の気配を引きずりながら、しかし夜と朝の境目の曖昧さを孕んだ時間帯だった。窓の外はまだ墨のように暗く、部屋の中も形を結ぶか結ばぬかの輪郭が漂っているだけで、はっきりとしたものは何一つなかった。
気づくと、俺はベッドの上に立たされていた。
母親に叱られている。
「なんであんなことしたのっ!」
その声が頭に突き刺さる。けれど、俺には何をしたのか皆目わからなかった。目覚めたばかりなのだ。何を責められているのか、夢の残骸と現実の境がつかめず、ただ呆然と「ごめんなさい」と繰り返すしかなかった。
しかし、謝っても謝っても許されない。
「なんであんなことをしたのか」「どうしてなのか」「今、何時だと思ってるのか」――同じ問いかけが延々と繰り返される。言葉は刃物のように鋭くもあり、縄のように絡みついてくるようでもあった。
普段から母親はしつこく叱る人だった。謝ってもやめないし、黙っていてもやめない。逃げ道はない。だからこの時も「あぁ、いつもより少し強めに怒っているのだな」くらいに思っていた。けれども、次第に胸の奥がざわついてきた。
違和感は、周囲の静けさだった。
こんなにも怒鳴られているのに、隣の部屋で寝ている父が起きてこない。二段ベッドの下で眠っている妹も、物音ひとつ立てない。いつもなら寝返りのきしみや寝息が耳に入るはずなのに、全てが無音。時計の針の刻む音も、遠くの道路を走る車の気配も――一切、存在しなかった。
それなのに、目の前で母親だけがしつこく問いただし続けている。
その時、ふと気づいた。俺はまだ一度も母親の顔を見ていない。
声と気配で母親だと思い込んでいたが、暗闇に沈む顔は終始見えないままだった。
胸の奥が凍りついた。
そして次の瞬間、手が飛んできた。
ばちん、と頬を打たれた。
だがその手がおかしかった。爪が異様に長く、指先は氷のように冷たい。
母親じゃない。
母は爪を伸ばさない人だった。弱く薄い爪が割れてしまうから、いつも短く整えていた。間違えるはずがない。これは母ではない。
気づいた瞬間、耳に響く声が変質した。
伸びきったテープのように、調子がぐにゃりと歪む。
「なんで殺したの……どうして殺したの……どうして死んだの……」
低く、底のない穴から響くような声に変わっていた。
怒鳴り声ではなく、恨みを吐き散らす泣き声のように。
背筋が凍り、必死に逃げようとしたが、体は金縛りに縛られて動かない。
足の指一本さえ動かすことができない。息が苦しい。
「悪いと思ってるの……?」
その声とともに、そいつは顔を近づけてきた。
髪はぼさぼさに乱れ、肌は死人のように青白く、そして両目が存在しなかった。空洞のように、ぽっかりと抉られた顔が闇の中に浮かんでいた。
視界が白くはじけた瞬間、意識が途切れた。
――気がつくと、またベッドの上で立たされていた。
だが、今度は朝だった。光が部屋に差し込み、世界は現実の輪郭を取り戻している。母親の顔もはっきり見える。怒っているのは間違いなく母親だった。
「どうしてあんなことしたの? 何してたの? どこ行ってたの?」
同じように問い詰められていたが、今回は聞いてみた。俺は一体何をしたのか、と。
母は一瞬きょとんとした後、こう言った。
「あんた、寝ぼけてたの?」
母の話によれば、昨夜の二時ごろ、まだ起きていた両親の前を俺がふらりと通ったらしい。トイレかと思ったら、そのまま玄関を開けて「遊びに行ってくる」と言って外へ出て行った。慌てて探したが見つからず、家に戻ると俺はベッドでぐっすり眠っていたという。起こしても反応しなかったから諦め、朝まで放っておいたらしい。
だから母は怒っていたのだ、と。
夜中に勝手に出歩くなど危険極まりない。
だが、俺の記憶にはない。
夢遊病のようなものだったのかもしれない。
それでも、あの暗闇の中で見た“母親ではないもの”の気配――あれだけは夢の仕業とは思えなかった。
あのとき俺は、本当に外に出ていたのか。
それとも、あの“目のない女”に連れて行かれていたのか。
思い出そうとすると、未だに胸の奥がひやりと冷たくなる。
あの声が、耳の奥でかすかに残響している。
「なんで殺したの……どうして死んだの……悪いと思ってるの……」
今でも、眠りの深みに落ちる時、あの声が近づいてくる気がする。
――俺は何をしたというのだろうか。
[出典:529 本当にあった怖い名無し 2006/04/18(火) 13:58:41 ID:TRB6zpuJ0]