大学を出て東京に出てきてから、もう十年以上が経つ。
その間に二度引っ越した。人に話すほどの数ではないが、関西から一緒に上京した同級生たちのほとんども、一度は引っ越しを経験していると知って、妙に納得した覚えがある。
なかには十年以上、同じ建物から動かずに暮らしている者もいたが、それはむしろ稀だった。
そんな話を肴にしていたとき、必ずといっていいほど脱線していくのが「物件選び」の裏話だった。
敷金だの礼金だのよりも、いつしか誰かが「事故物件」の話を持ち出す。そこで場の空気が急にざわつき始めるのだ。
実を言えば、僕自身にも思い出がある。東京に出てきたばかりの頃、池袋の駅から徒歩五分という物件を内見した。家賃は相場より二割ほど安くて、妙に得した気持ちで部屋を覗いたのを覚えている。
案内してくれた仲介業者は、やけに早口で説明した。「ひと月前に中国の方が亡くなった。血の跡はきれいに処理済み」
その言葉を聞いた途端、背筋に冷たいものが走った。唯一の窓が外壁に塞がれていて、日差しがまるで届かず、湿気でよどんだ空気が漂っていた。結局、その部屋は見送った。
そんな過去があったから、友人たちが口にする事故物件の話には耳をそばだててしまう。
その夜も一通り、聞いたことのある怪談じみた噂や、不動産業界の裏話で盛り上がったあとだった。
ひとりが、ぽつりと口を開いた。
「俺、最近引っ越したときに……見たんだよ。そういうやつを」
その一言で空気が変わった。全員が息を止めるようにして彼の話を待った。
彼は淡々としていたが、その顔色が冗談を言っていないことを物語っていた。
「広さの割に異様に安い部屋があってさ。二十三区内で三十六平米、家賃は四万円弱。おかしいだろ」
仲介業者に「ここを見たい」と告げると、即座に返ってきたのは「おすすめしません」という言葉だったらしい。
理由を問うと「実質使える部分が広くないから」と曖昧に濁される。
その時点で彼は、ただごとではないと直感したそうだ。
だが、同時に心のどこかで「大したことはないかもしれない」と思い、結局足を運ぶことにした。
物件を案内されたとき、業者はわざとらしいほど気のない調子で言った。
「まずはハズレから見ますか」
出向いたその建物は、外観こそありふれた鉄筋コンクリート造のマンションだったが、入り口から漂う湿気と鉄のようなにおいが、すでに他の物件と違っていた。
間取り図を広げられる。
細長い廊下を進み、右に水回り、さらに進むと右手に引き戸。その奥にキッチンがあり、L字に曲がった先で再び同じ部屋へ通じる引き戸。突き当たりにもう一部屋。
要するに、中央に囲まれるようにして「一番広い部屋」があり、その扉が問題だった。
「開けないで住んでいただく、という条件になります」
仲介業者は真顔で言ったらしい。
「生活できる範囲は半分になります」
あまりに不自然で、彼は笑いそうになったそうだ。だが、部屋に足を踏み入れると、笑う気分は霧散した。
壁紙は白いはずなのに、薄茶色にくすんで見える。
蛍光灯をつけても光が届かない。埃とは違う、空気そのものに色がついているような、沈殿したような感触。
案内を終えた業者が、唐突に言った。
「開けますか。これで最後にしてください。住むなら二度と開けないこと」
彼は後ずさりしたまま、業者の手元を見ていた。引き戸が横に滑る。
現れたのは畳敷きの部屋。
「中に入らないでください。眺めるだけ」
強い口調で釘を刺される。
そして、さらに続けざまに。
「左手の仏壇は見ないでください」
視界の端に、黒々とした仏壇が閉じたまま置かれているのがわかった瞬間、部屋全体の空気が変わったという。
どろりと重たく、喉を締めつけるようで、何かが今にも出てきそうな気配。
業者は平然としていたが、声の調子だけが硬く張り詰めていた。
「中に足を入れたら終わりです。仏壇を開けば完全に終わりです」
彼は顔を青ざめさせて頷いた。
案内が終わり、慌ただしく建物を後にしたとき、業者が車の中で深く息をつきながら言ったそうだ。
「死んでます。あそこに入った人、みんな長くもたないんです」
短期間で入居者が次々に亡くなっている。逃げ出した者も少なくないという。
後日、耳にした噂をつなぎ合わせると、二つの現象が共通していた。
ひとつは、廊下で女の姿を見ること。玄関を開けると、曲がり角を曲がっていく背中が見える。追いかけても、誰もいない。
もうひとつは、仏壇から老人が這い出してくること。そのときは体が金縛りに遭ったように動かず、目の前で這い出してくる姿をただ見ているしかない。みんな、そこまでで耐えられなくなって逃げ出す。
「霊感とかないんだよ。誰でも見るんだ」
彼はそう言って話を締めくくった。
僕は黙って頷いたが、背中に冷や汗が伝っていた。
自分がもし、あの内見に立ち会っていたらどうしただろう。覗いてしまっただろうか。
それとも……仏壇の扉に手をかけてしまっただろうか。
考えるだけで、胃の奥がひっくり返るような気分になった。
[出典:443 :本当にあった怖い名無し:2014/09/04(木) 03:32:32.94 ID:c//tzQKb0.net]