今でも、あの夜の冷えた空気を思い出すと、背中の奥に細い針を一本ずつ差し込まれるような感覚が蘇る。
寒さではない。皮膚の表面ではなく、もっと内側、骨と神経の境目を正確になぞられるような冷えだ。
三年前の冬だった。
仕事もうまくいかず、人間関係もどこか噛み合わず、理由のはっきりしない焦燥感だけが日々をすり減らしていた。そんな時、私は決まって由香利に連絡を取った。彼女は友人と呼ぶには近すぎ、恋人と呼ぶには何かが足りない距離にいた。愚痴を吐き出しても遮らず、慰めの言葉も無理に探さない。ただ黙って聞き、必要な時だけ短く言葉を置いてくれる。私にとっては、それだけで十分だった。
彼女には、昔から少し妙なところがあった。
生まれつき「見える」と、特別な抑揚もなく言う。夜中に目が覚めたら、部屋の隅に誰かが立っていること。金縛りは日常で、むしろ何も起きない夜の方が珍しいこと。そんな話を、天気の話と同じ調子で語る。私は半分は冗談として聞き、半分は聞かなかったことにしていた。信じるにしても、信じないにしても、どちらかに振り切るのが怖かったのだと思う。
その夜は雨が降っていた。
遅くまで話し込んでしまい、彼女が車で家まで送ってくれた。エンジンを切り、カーポートの下で、いつものように取り留めのない会話を続けていた。フロントガラスに流れる雨筋が、街灯の光を引き延ばして歪ませている。気づけば周囲はすっかり暗く、裏手の古い電灯だけが、弱々しく点いていた。
その時、由香利が急に黙った。
会話の途中で、音だけが切り落とされたような沈黙だった。彼女はシートに座ったまま、身体をわずかに強張らせ、窓の向こうを見ていた。視線の先は、家の裏手、年季の入った一本の電灯だった。
「この辺で……最近、誰か亡くなってない?」
問いは、独り言のように落ちた。
私は即答できなかった。近所の出来事に疎かったし、思い当たる話もない。ただ、その間に、飼い犬の声が響いた。裏庭から、低く、執拗に吠え続けている。普段は来客にも大して反応しない犬だ。その吠え方は、何かを威嚇するというより、境界線を示すようにも聞こえた。
由香利は、私を見なかった。
目を細め、窓の外に意識を固定したまま、小さく言った。
「立ってる」
何が、とは言わなかった。
私は笑おうとしたが、喉の奥で空気が引っかかり、音にならなかった。視界の端で、フロントガラスに映る自分の顔が、思ったよりも青白く見えた。
「今は外に出ないで」
その声は、忠告というより、確認に近かった。
まるで、すでに決まっていることをなぞるような調子だった。冷気が、車内に溜まっていく。エアコンは切れているのに、足元からじわじわと温度が下がっていく感覚があった。窓の外には何も見えない。ただ、見えない何かが、車のすぐそばにいるという前提だけが、空気の重さとして存在していた。
不意に、由香利がこちらを向いた。
「カズヤ君」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥がひくりと縮んだ。
「動かないで。今、あたしのそばにいて」
理由は言わなかった。
私は反射的に彼女の肩に手を回した。触れた身体は硬く、呼吸が浅いのが伝わってきた。彼女の視線は再び窓の外へ戻り、そのまま強く、鋭く言葉を放った。
「この人は、あたしのだから」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
声は怒鳴るほど大きくはない。むしろ抑えられていて、確信だけが混じっていた。その瞬間、耳鳴りのような圧迫感が広がり、視界がわずかに歪んだ。
次の瞬間、鋭いクラクションが鳴り響いた。
敷地に母の車が入ってきたのだ。ヘッドライトがカーポートを照らし、闇を切り裂いた。その光が届いた途端、さっきまで確かにあった圧迫感が、嘘のように薄れた。
母は車を降りると、私たちを見て眉をひそめた。
「何やってるの、そんなところで」
その視線は、由香利ではなく、私に向けられていた。
私は慌てて手を離した。母は軽く笑い、「寒いのに」とだけ言って家に入っていった。由香利は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと呼吸を整え、視線を正面に戻した。
その夜は、それで終わったはずだった。
翌日から、家の中で音が鳴るようになった。
決まった時間ではない。天井、壁、廊下の奥。乾いた音が、単発で鳴る。母は「家が古いから」と気にも留めなかったが、私は違った。どの音も、まるで位置を変えながら、こちらの様子を窺っているように感じられた。
由香利には、その後、何度か連絡を取ろうとした。
返信は来なかった。電話も繋がらない。共通の知人に聞いても、最近会っていないと言う。もともと、彼女の生活について、私は何も知らなかったのだと、その時になって気づいた。
音は、今も続いている。
頻度は減ったが、完全には消えていない。眠りかけた頃、意識が浅くなった瞬間にだけ、遠くで鳴る。叩く音なのか、合図なのか、判断できない。
時々、夢を見る。
あの夜と同じ冷えた空気の中で、誰かがすぐそばにいる夢だ。姿は見えない。ただ、視線だけがある。歯の抜けた口元が、闇の中で歪む気配と、柔らかい声。
目が覚めても、その声が誰のものだったのか、思い出せない。
由香利だったのか。
あの夜、立っていた何かだったのか。
それとも、最初から私自身の内側にあったものなのか。
眠るのが怖い。
だが、目を閉じるたびに、誰かの腕が、あの夜と同じ位置に伸びてくる気がしてならない。
(了)