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短編 r+ 山にまつわる怖い話

挨拶を返した山 rw+3,933-0121

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学生時代でも社会人になってからでも、俺には胸を張って言える趣味というものがなかった。

好奇心に突き動かされて何かを始めては、少し齧ったところで満足し、熱が冷めると同時に放り出す。その繰り返しだ。続けるという行為そのものが、俺にはどうにも向いていなかった。

そんな俺が、ある年の冬、不意に山に惹かれた。理由ははっきりしない。運動不足の解消だったのか、単なる気まぐれだったのか、自分でも分からない。ただ、低山なら大丈夫だろうと軽い気持ちで歩き始めた。

いくつかの山を回った。息が上がる急登もあれば、拍子抜けするほど平坦な道もある。思っていたより退屈しなかった。装備も知識も中途半端で、登山と呼ぶには心許ないが、それでも週末に汗をかく程度の娯楽としては悪くなかった。俺は自分を「登山家」だと思い込みかけていた。

一通りのコースを踏破し、そろそろ飽きが見え始めた頃、職場の先輩が昼休みにぽつりと「登山って、ちょっと興味あるんだよな」と言った。

渡りに船だった。俺は即座に「いい山ありますよ」と応じ、週末に一緒に行くことになった。

当日、麓でルートを相談し、先輩の希望で一番「登山らしい」コースを選んだ。午後二時を少し回った頃に登り始めた山は、木々の影が長く伸び、時間の割に薄暗かった。昼のはずなのに、景色全体が夕暮れに寄っているような、色の沈み方をしていた。

登山道ですれ違う人には挨拶をする。それが暗黙の作法だと聞いていた。だから俺たちも、通り過ぎる人影に軽く頭を下げ、「こんにちは」と声をかけた。返事が返ることもあれば、無言で通り過ぎられることもあったが、特に気にはならなかった。

異変を感じたのは、五、六人ほどの年配の集団とすれ違ったときだ。

帽子にチェックシャツ、軽装のハイカー。よく見かける格好だった。なのに、俺は一瞬、息を詰まらせた。目の前にいるはずの「顔」が、どれひとつとして記憶に残らない。見ているはずなのに、見えていない。顔の位置だけが白く滲み、輪郭も表情も掴めなかった。

太陽を直視したあとに残る残像。その白さが、彼らの顔の部分にだけ貼り付いているようだった。

集団が通り過ぎても、違和感は消えなかった。俺は足を止めかけたが、何事もなかったふりをして歩き続けた。次にすれ違った登山者の顔は、普通に見える。だから無理やり「気のせいだ」と自分に言い聞かせた。

山中のベンチで休憩していると、先輩が妙に険しい顔でこちらを見た。

「なあ、お前……目、変じゃないか」

意味が分からず「別に」と返すと、先輩はしばらく黙り込み、視線を地面に落としたまま呟いた。

「さっきさ、人の顔が、ちゃんと見えなかったんだよ」

心臓が一度、強く鳴った。俺は、あの集団のことを思い出した。恐る恐る話すと、先輩は顔色を変え、「やっぱりか」と低く言った。二人とも、同じものを見ていた。

頂上に着いたのは三時過ぎだった。風が冷たく、長居する気にはなれなかった。写真を一枚撮り、すぐに下山を始めた。

三時半を回り、山道は一気に冷え込んできた。足を速めて進んでいると、前方の川沿いに、動く影が見えた。

チェックシャツの集団だった。

登ってきている。人数は……さっきと同じようにも見えるし、少し違う気もする。色合いも微妙にズレているようで、確信が持てない。ただ、同じ種類の人たちだという感覚だけは、はっきりしていた。

俺たちは無言で彼らとすれ違った。

最後の一人を通り過ぎた瞬間、背後から、間の抜けた女の声がした。

「こんにちはぁ」

妙に伸びた声だった。先輩が小さく肩を跳ねさせ、そのまま歩調を上げる。俺も黙って続いた。だが、数歩も進まないうちに、また背後から同じ声がした。

「こんにちはぁ」

抑揚も間合いも、まったく同じ。録音を再生しているみたいだった。俺は振り返らなかった。振り返ってはいけないと、理由もなく分かっていた。

先輩に追いつき、「さっきの……」と声をかけた瞬間、先輩は急に立ち止まり、俺の胸ぐらを掴んだ。目が潤んでいた。

「なあ、いたんだぞ。すぐ前に。ちゃんと挨拶もされた。それなのに……顔が、やっぱり分からなかった」

声は震えていた。泣いているのか、怯えているのか、区別がつかなかった。

俺は何も言えなかった。先輩の顔を見ようとした、その瞬間、自分の視界の端で、先輩の輪郭が滲んだ。目、鼻、口。その位置だけが、ぼやけて溶け始めていた。

山を下りきるまで、俺たちは一言も話さなかった。

それ以来、俺は山に行っていない。趣味として続かなかっただけだと言い聞かせている。

ただ、街ですれ違う人の中に、ときどき顔の記憶が残らない相手がいる。そういう時は、挨拶をしない。声をかけられても、振り向かない。

あの日、俺たちが何とすれ違ったのかは分からない。分かっているのは、顔を見ようとする行為そのものが、何かを引き寄せるらしいということだけだ。

そして、今この文章を書きながらも、画面に映る自分の指先が、少しずつ輪郭を失っている気がしてならない。

(了)

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