今もあのとき鼻を突いた匂いを思い出すと、食欲が消える。胃の奥がひっくり返るような、不快で生々しい臭気だった。
子供の頃は、そんなことを感じたことは一度もなかった。祖父母の家に行けば、外で遊ぶのが当たり前で、山を駆け回っては汗と泥にまみれ、夕暮れになると祖母が呼び戻してくれる。畳の上でスイカを頬張り、うたた寝してしまう。そんな日々の中で、あの小屋はただの「秘密基地」でしかなかったのだ。
山の奥、錆びたトタンと歪んだ板で組み立てられた粗末な小屋。外から見れば幽霊屋敷のようで、大人たちなら眉をひそめただろう。しかし、子供の目にはそれが立派な砦に見えた。古い丸椅子を持ち込み、不要になった机を並べ、蜘蛛の巣だらけの壁をほうきで掃き、俺たちは自分の城を築き上げた。
仲間はいつも同じ顔ぶれだった。猪突猛進のタケシ、口うるさいほど慎重なマサヒコ、そして俺。遊びの中心には必ずタケシがいて、危ないことはだいたいマサヒコが止め、それでも押し切って実行するのが俺の役割だった。夕暮れまで走り回り、疲れて倒れ込むまで遊んだあの頃を思えば、小屋はただの笑い声の箱でしかなかった。
だが、年月は小屋を別物に変えていた。
大学生になって三年が経ち、祖父母の家を久しぶりに訪ねたとき、ふと頭をよぎったのだ。あの小屋は今どうしているのだろう、と。祖母の手料理を頬張りながら、懐かしさに駆られて立ち上がった。
道は半ば失われていた。獣道は雑草に覆われ、蜘蛛の巣が顔に絡みつき、何度も足を取られた。だが、木々の切れ間にトタンの屋根が見えた瞬間、胸の奥がざわついた。生き物の匂いとは違う、澱んだ気配がそこに溜まっているように感じた。
扉はかろうじて軋みながら開いた。暗闇とともに、あの匂いが吐き出される。古い汗、干からびた血、湿った土、布の腐臭が入り混じったような臭気。鼻をタオルで押さえ、震える手で中に踏み込むと、そこに「人影」があった。
一瞬、本物の人間がいると思った。背筋が凍りついた。しかし、よく見ればそれは埃を被った人形だった。セーラー服を着せられた女の人形。妙に生々しい質感で作られ、目は硝子玉のように光を反射していた。無表情のはずなのに、じっと俺を見つめているようだった。
死体じゃなかったという安堵は、すぐに別の恐怖に変わった。なぜ、こんな場所にこんな人形が置かれているのか。誰が、何のために。
踵を返そうとしたとき、足に硬いものがぶつかった。見下ろすと、それは見覚えのある丸椅子だった。祖父母の家から無断で持ち込んだ、あの椅子だ。座面に黒々と「ウラギリ者」と書かれていた。
一瞬、息が止まった。目を泳がせると、机の上に置かれたペン立ても同じように「ウラギリ者」と記されていた。それもまた、俺が子供の頃に持ち込んだものだった。
誰が、こんなことを。何のために。
そのとき足裏に異様な感触があった。踏み潰したのは薄いゴムの袋。視線を落とせば、床一面に散らばる避妊具。乾ききったものもあれば、赤黒い染みが付着しているものもある。家具の隙間や床の割れ目にこびりつく、乾いた血のような斑点。
頭の中で警鐘が鳴り響いた。ここに長く居てはいけない。人形の硝子の瞳が俺を追っている気がした。背中に冷たい汗が流れ落ちる。
耐え切れず、小屋を飛び出した。枝を掻き分け、獣道を転げるように駆け下りた。祖父母の家に戻ったとき、息は上がり、全身が震えていた。荷物をまとめてすぐに帰ると告げた。祖母は怪訝そうにしていたが、理由を説明できるはずもなかった。
あの小屋で何が行われていたのか、俺には想像もつかない。だが、家具に残された「ウラギリ者」の文字が、俺に向けられたものだという確信だけが拭えない。俺は誰を裏切ったのか。タケシか、マサヒコか。それとも、もっと別の何者か。
もし、あの時、小屋の中で「まだ誰か」が息をしていたなら、俺はどうなっていたのか。考えるだけで吐き気がする。
祖父母は今、もうそこには住んでいない。家は東京に移り、あの山へ行く理由はなくなった。それが救いだ。だが、夢の中であの人形の視線を感じるたび、俺は確信してしまう。あれは「終わったこと」ではなく、「これから始まること」だったのだと。
(了)