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祖父と山神の記憶 r+5900

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小学生時代に遡る、三十数年前の記憶である。

それは、冬の日に祖父の家を訪れたときの出来事だ。

寒さが訪れる季節になると、その出来事がまるで昨日のことのように鮮明に蘇る。

夏休みや冬休みになると、私は毎年祖父の家に長期間預けられた。祖父の家は父の実家であり、私にとってひと夏ひと冬を過ごす特別な場所であった。その特別さは、祖父と過ごす何気ない時間の温かさにあった。朝の畑仕事に一緒に出かけたり、夜は囲炉裏を囲んで昔話を聞いたり、そんな小さな出来事が私の心を深く満たしていたのだ。

祖父の昔話は特に印象深かった。狩りをしたときのことや、若い頃の村での出来事、そして祖母との思い出など、祖父が語る一つ一つの話は私にとって宝物だった。特に忘れられないのは、祖父が若い頃に熊を仕留めた話だ。祖父は一人で山に入ったとき、突然熊と出くわしたという。恐怖に襲われながらも、祖父は冷静さを保ち、矢を放って熊を仕留めた。

その後、村に戻ってみんなで熊を解体し、無駄なく使ったこと、その命に感謝して供え物をしたことなどを、まるで昨日のことのように語ってくれた。その話を聞いて、私は祖父の勇気と命への尊敬の念を深く感じたのだった。祖父の優しい声に包まれながら、私は時間の感覚を忘れ、物語の中に引き込まれていった。祖父の話は、現実世界と夢の境界をぼんやりと曖昧にし、まるでその物語の中に自分が生きているかのような感覚にさせてくれた。

その年の冬もまた、祖父は太陽のように温かい愛情をたたえた笑顔で私を迎えてくれた。

「よう来たな、健太。少し大きくなったか?」

祖父の声を聞いた私は我慢できずに祖父に抱きつき、その日から風呂も寝る時もいつもと同じように祖父と共に過ごした。

祖母は既に随分前に亡くなっており、祖父は一人で小さな家に住んでいた。祖父もまた、私が訪れることを楽しみにしていたのだろう。

祖父の家は東北地方の山間に位置する集落にあった。私は毎年訪れるたびに、冒険心を刺激されるのを感じた。

当時、私は都会に住んでいたので、祖父の住む場所の全てが新鮮であった。清流、雄大な山々、澄んだ空気、それら全てがまるで神々しい世界に思えた。

特に冬の銀世界は都会では見ることのできない特別な光景であり、まるで別世界に迷い込んだような感覚であった。雪が降り積もり、一面が真っ白に染まるその景色は、私にとって言葉では表せないほどの美しさを持っていた。雪の中を歩くときの足音の響き、頬に当たる冷たい風、そして雪の結晶が空から降りてくる瞬間の静寂さ。そんな一つ一つの瞬間が、私の心に深く刻まれていた。

しかし何よりも、私は祖父が大好きだった。祖父は常に穏やかで、決して怒らず、その笑顔は村の人々に愛されていた。祖父の周囲はいつも温かな笑顔で溢れていた。

祖父は農業を営みながら、マタギ(猟師)としても生計を立てていた。大自然に精通し、その命と共生する祖父は、自然の尊さと共生の大切さを教えてくれる存在だった。私は祖父に連れられて山に行くたびに、山の動植物のことを学び、大自然の中で生きることの厳しさと美しさを体験した。祖父は動物を狩るときも、必ずその命に感謝し、無駄にすることを許さなかった。その姿を見て、私は命の大切さを深く学んだ。

そんな祖父の家に滞在して一週間ほど経ったある朝、私は集落の友人である彰と隆志と一緒に秘密基地を作るため山へ出かけた。

「いってきまーす!おじい、おにぎりありがとう!」

「おお、気をつけるんだぞ。川に落ちないようにな。それと……あまり遠くへ行くんでねぇぞ。あ、ちょっと待て、健太」

「なに?」

「健太、何度も言うが《中つ森》には絶対に行くな。あそこはわしらも近寄らない場所だ。分かっているか?」

「うん、わかってるよ」

「それと……なんだか今朝から山の様子がおかしい。鳥が騒ぎ立てているし、それでいて不気味な静けさもある。変な日だから、なるべく山の奥には行くんじゃねぇぞ」

「はーい」

その日はこの季節には珍しく雪が降っておらず、よく晴れていた。それ以外は何も変わらない、いつも通りの朝だった。しかし、その時の私には祖父の言葉の意味が理解できていなかった。

《中つ森》とは、祖父が決して近づくなと警告していた神聖な森であった。そこは村の山神様を奉る場所であり、村の誰一人として立ち入ることを許されない場所だった。この森には古くからの伝承があり、かつて山神様が人々を守るために降臨したとされる神聖な地であると語り継がれていた。

村の古老たちは、山神様が敵から村を守るために《中つ森》に降り立ち、そこに留まったと語っていた。山神様はその地を守護し、侵入者を容赦なく排除する存在であるとされていた。ある時、村の若者が好奇心から《中つ森》に足を踏み入れたが、二度と戻ってこなかったという逸話が残っている。そのため、山神様の怒りを買えば命を奪われるとも信じられており、村の人々は《中つ森》を畏れ、決して近づくことを固く禁じていたのである。

祖父の忠告を気に留めず、私たちはさらに山奥へと秘密基地を作るための場所を探し進んでいった。

三十分ほど歩くと、ちょうど良い開けた場所を見つけ、そこに基地(とは言ってもかまくらのようなものだが)を作り始めた。昼食を取りながら基地作りに夢中になっていた。私たちはその場でたくさんの笑い声を上げながら、雪を掘り進め、木の枝を使ってかまくらを強化した。時間が過ぎるのも忘れるほど楽しんでいた。

だが、日が傾きかけた頃、彰が不安げに周囲を見回していた。

「なんか、山が変だ。いつもと違う」

私にはその言葉の意味が理解できなかった。見える景色はいつも通りで、特に変わったところはなかった。しかし、彰の言葉には祖父の不安と重なるものを感じた。

「どういうこと?」

「……よくわからんけど、山全体が揺れているような感じだ。風も妙に変だし、寒くもなくて暖かくもない。ほら、あれを見て!」

彰が指さした先には、鹿の群れが森の奥から駆け出してきた。その後を追うように、鳥の群れが何かから逃げるように飛び去っていった。

隆志がつぶやいた。「熊から逃げているのかもしれない。それはまずいぞ」

「いや、この辺りに熊が来ることはないはずだ。何かがおかしい、今日は帰ろう」

私たちはその不安を感じ、その場を後にすることにした。しかし帰路についた時、周囲の景色がどこかおかしいことに気づいた。まるで同じ場所をぐるぐる回っているかのようだった。

どれほど歩いただろうか。辺りは次第に暗くなり、私たちは完全に迷ってしまった。さらに雪が降り始め、寒さが一層強まり、私たちの不安は増していった。雪が降り積もるにつれ、足元はどんどん重くなり、体力も削られていった。雪の重みと冷たさが私たちの進む力を奪っていくようだった。

ふと、懐中電灯の光が何かを照らし出した。それは、色の剥げた古びた鳥居であった。

私たちは恐る恐る鳥居をくぐり、荒れ果てた石畳を進むと、小さな祠が現れた。

「まさか、ここが《中つ森》……?」

その言葉が口をついた瞬間、背筋に冷たい何かが走った。ここは間違いなく、祖父が絶対に近づくなと言った《中つ森》だったのだ。

突然、耳元で囁く声が聞こえた。

「デテイケ、デテイケ、デテイケ……」

その声は男とも女ともわからない冷たさを帯びた声で、耳元ではなく、まるで頭の中に直接響いてくるような感覚だった。全身に鳥肌が立ち、心臓が強く鼓動し始めた。凍りつくような恐怖で足がすくみ、一瞬体が硬直した。

全身に鳥肌が立ち、時間が止まったかのような感覚に陥った。恐怖に包まれた私は、ただその場で立ち尽くすことしかできなかった。

「ここから出ろ!」と誰かが叫んだ。

私たちは訳も分からず、ただ必死にその場を逃げ去った。何度も転びながら、とにかく走った。雪に足を取られながらも、前へ進むためだけに足を動かし続けた。

その後、私は祖父によって救出された。気がつけば、祖父の家の布団の中にいた。

「健太、よかった……本当に生きていてくれてよかった……」

祖父が涙を流すのを見たのは、その時が初めてだった。しかし、私の右手首から上は既に失われていた。

「あの時、山神様はお前を守ってくれたんだ」と祖父は語った。「山神様はこの山の生と死を司る存在だ。お前の命を助けるために、雪崩の来ない《中つ森》に運んでくれたんだ。命一本で済んだんだよ」

祖父の話を聞きながら、私は自分の右手を見つめた。右手首の先は包帯に包まれ、失われた手の感覚はどこにもなかった。当時の私には、祖父の言葉の真意を理解することはできなかった。しかし、祖父が私のために涙を流してくれたこと、それがどれほど大きな意味を持つのかは感じていた。

時が経ち、祖父は亡くなった。しかし今でも、あの時の記憶は鮮明に蘇る。

《中つ森》はもう存在しない。山神様の祠もどこかに移されてしまったと聞いた。このことは村人たちにも大きな影響を与えた。村の人々は、《中つ森》が失われたことに深い失望と悲しみを抱いていた。特に古老たちは、かつての神聖な場所が開発されることに反対し、祠が移されたことに対しても強い無力感を感じていた。ある老人は、「山神様が怒らないか心配だよ。あの場所があったからこそ、私たちは守られていたんだ」と語った。

また、村の若い母親たちは、子供たちに伝え続けてきた《中つ森》の物語が失われてしまうことを恐れていた。彼らにとって、《中つ森》はただの森ではなく、村の歴史や文化の一部であり、山神様の加護を象徴する存在であったのだ。

かつて《中つ森》を畏れ、そこに祈りを捧げていた村人たちは、その聖域を失ったことで何か大切なものを失ったような喪失感を抱いていた。私自身も、祖父と過ごした日々の記憶と重なり、その失われた場所に対する深い悲しみを感じていた。あの森がなくなったことで、祖父や山神様とのつながりが切れてしまったように思えたのだ。

祖父の家の近くに広がっていたかつての森は、今ではほとんどが開発され、アスファルトの道が通り、コンビニや駐車場ができていた。その変貌した景色を見るたびに、私は何とも言えない寂しさを覚えた。かつての祖父との思い出が、現代の便利さの影に隠されてしまったように感じた。

山神様は、変わり果てたこの山々を見て何を感じているのだろうか。

今、ツルツルの右手を眺めながら、ふと思う。祖父もまた山神様と共にどこかで私を見守っているのだろうと。山の命としてどこかで息づき、静かに私を見つめているのではないか。そう考えると、少しだけ心が温かくなるのを感じる。

(了)

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