その日はエイプリルフールだった。
いつものように、僕らは僕の部屋に集まっていた。大学の講義が休みで、外は妙に暖かく、桜も中途半端に散り始めている。誰かが提案して集まったわけでもない。ただ、気づけばここにいる。テレビはつけず、テーブルの上には安いビールとコンビニのつまみ。会話も途切れ途切れで、沈黙が長くなるたびに缶を開ける音だけが響いた。
あまりに暇だったので、誰かが言い出した。
「今日はエイプリルフールだろ。嘘つこうぜ」
くだらない。そう思ったが、他にやることもない。
ルールは単純だった。一人ずつ嘘をつく。上手いか下手かはどうでもいい。その嘘を肴に酒を飲むだけ。誰も傷つかない嘘。冗談で済む嘘。そういう前提だった。
トップバッターは僕になった。
「実はさ、去年ナンパした女が妊娠してて、もう子供がいる」
場が一瞬静まり返り、すぐに微妙な笑いが起きた。信じるやつはいない。僕自身も笑いながら、缶を口に運んだ。
その瞬間、なぜか背中がひやりとした。
嘘をつくとき、人は完全な嘘をつけない。どこかに本当の欠片が混じる。そんな考えが、唐突に頭に浮かんだ。
ナンパなんてしていない。だが、昔付き合っていた女が妊娠したことはある。そして、その結果どうなったかも、僕は知っている。思い出したくもない記憶が、酒のせいで浮かび上がってきた。背中に何かが張りついているような感覚を振り払うように、僕は話題を切り上げた。
順番は適当に回っていった。借金の嘘、病気の嘘、武勇伝の嘘。どれも軽く、笑って流せるものばかりだった。
最後に残ったのが、彼だった。
無口で、昔から感情を表に出さない男。笑うことはあっても、どこか作り物めいている。皆が彼の方を見ると、彼は少し考える素振りをしてから口を開いた。
「俺は嘘が下手だ。だから、一つ作り話をする」
「それ、嘘じゃないじゃん」
「まあいいだろ。似たようなもんだ」
誰も深く突っ込まなかった。彼はビール缶をテーブルに置き、背筋を伸ばした。その動きがやけに儀式めいて見えた。
「気づいたら、真っ白な部屋にいた。壁も床も天井も、全部白。音がないと思った瞬間、天井のスピーカーから声がした」
彼は声色を変えなかった。淡々と、事実を読み上げるように話す。
「これから進む道は人生の道であり、人間の業を歩む道である。選択と苦悶のみを与える、ってな」
白い部屋。赤い文字のドア。進め、とだけ書かれている。ドアの向こうに三つの選択肢がある。
右手のテレビを壊すか、左手の寝袋の中の人を殺すか、それとも自分が死ぬか。どれを選んでも先へ進めると言われる。
彼は寝袋を選んだと言った。鉈を振り下ろしたときの音。重さ。反動。床に広がる感触。
次の部屋。客船。火。灯油の匂い。燃える音。
さらに次の部屋。地球儀。拳銃。反動。耳鳴り。
彼の話は、回数を重ねるごとに具体的になった。血の色や、肉の感触については触れない。ただ、選択した事実だけを積み重ねていく。
何度目かの部屋で、ようやく出口が現れた。何もない空間。スピーカーの声。
「選択は終わった。命の重みを最後に知れ。出口は開いた」
彼は助かったと思ったらしい。安堵してドアを開け、光に包まれた部屋へ踏み出す。
そのとき、足元に何かが転がっていた。
彼は一拍置いた。部屋の空気が、そこで初めて重くなった。
「三つの遺影だった。父と、母と、弟の」
誰も笑わなかった。冗談だと分かっているはずなのに、笑えない。作り話だと理解しているのに、頭の中で映像だけが勝手に再生される。
耐えきれず、僕は声を荒げた。
「やめろよ。そんな話、嘘でも冗談でも最悪だろ」
彼は何も言わなかった。ただ、口角をゆっくり持ち上げた。その笑みは、場を和ませるためのものには見えなかった。
その瞬間、僕は気づいてしまった。彼の話には、最初から嘘だと言い切れる部分が一つもなかったことに。
彼は立ち上がり、上着を手に取った。玄関の方へ歩きながら、振り返らずに言った。
「もう、ついたよ」
ドアが閉まる音がして、部屋に残ったのは僕らだけだった。
誰も動かなかった。時計を見る者も、缶を開ける者もいない。沈黙が続く中で、なぜか僕は、自分の背中に意識が集中していた。
何かが、確かにそこにいる。そんな感覚だけが、いつまでも消えなかった。
(了)
[出典:885 :本当にあった怖い名無し:2008/06/22(日) 22:16:06 ID:YqcAHiai0]