トラックの運転手をしている友人から聞いた話だ。
長距離運転中に見た、あり得ないものの話だった。聞いてからずいぶん経つのに、夜道を走ると、ときどきその話を思い出す。
あれは鳴子の山道を走っていた夜のことだという。午前三時過ぎ。右は黒々とした林、左は崖。街灯はない。ガードレールは頼りない金属の線に過ぎず、その先は闇が口を開けている。ヘッドライトに照らされるアスファルトの帯だけが世界だった。
当時の仕事は過酷だった。一度出れば一週間は帰れない。現場から現場へと荷を運び続け、仮眠は車内で細切れに取る。眠気は慢性化し、意識の輪郭は常に曇っていた。エンジン音が子守唄のように感じられることもあったという。
その夜、前方に赤い光が揺れているのが見えた。テールランプだった。同じ時間に、同じ道を走るトラックがいる。その事実だけで胸の奥がわずかに緩んだらしい。孤独が薄まる気がしたと。
距離が縮まる。前を走るトラックは、友人の会社でも使っているのと同じ型だった。だが急に反対車線へ大きくはみ出し、すぐに戻った。障害物か何かを避けたような動きだった。
速度を落とし、前方を凝視する。
車道の中央を、人影が歩いていた。まっすぐ、ふらつきもせず。
ヘッドライトが照らし出したのは、黒一色の身体だった。頭から足先までぴたりと覆われ、衣服の皺も肌の凹凸も見えない。だが不自然だったのはその歩き方だ。腕も脚も、曲がるはずのない方向に折れ曲がり、関節が逆に畳まれている。後ろ向きなのか前向きなのか一瞬判別できない。
口だけが開き続けていた。何かを早口で喋っている。だが言葉としては耳に入らない。濡れた器官が擦れ合うような、一定のリズムを持たない音。
避けて通り過ぎたとき、サイドミラーにその姿が映った。中央線の上を、同じ速度で歩き続けている。
少し先で前のトラックが停車していた。運転手が降りてくる。見知らぬ男だったが、蒼白な顔でこちらを見た。
「見たか」
それだけだった。確認する言葉は他に要らなかった。
二人で振り返る。黒いそれは、ゆっくりこちらへ向きを変えていた。歩幅は変わらない。口は止まらない。
逃げた。ほとんど同時に車へ飛び乗り、二台は闇を裂いて走り出した。バックミラーに姿は映らなかった。だが消えたとは思えなかった。
ここまでが友人の話だった。
友人からは、その後、その区間でトラックが崖下へ落ち、運転手が亡くなったという後日談も聞いた。中央線付近には急ブレーキの痕があり、車は同じ型だったという。ただ、私には、それがあの夜と関係する事故なのかは分からない。
友人はその日以降、あの道を走らなくなった。部署を変えてもらい、短距離便に回ったという。だが話の中で、どうしても一つだけ合わない点がある。
前を走っていたトラックのことだ。
会社に戻ってから確認したが、その時間帯に同じ方面へ向かった車両はなかったという。運行記録にも残っていない。少なくとも、会社の記録であの区間を走っていたのは、友人の車だけだったという。
では、最初に赤いテールランプを見たのは誰の車だったのか。
「見たか」と言った男は、どこの誰だったのか。
友人はそれを深く追及しなかった。ただ、サイドミラーを見る癖が抜けないとだけ言った。高速道路でも、街中でも、後続車がいないはずの状況で、ふと中央線のあたりを確認してしまうらしい。
話を聞いて以来、私も同じ癖がついた。
夜道を走っているとき、ふいに中央線の向こうを探している自分に気づく。そこに何もいないと確認して、ようやく息を吐く。
だがときどき思う。
あの存在は、後続車がいるときにだけ現れるのではないか。誰かが前を走っているときにだけ、中央線の上を歩くのではないか。
つまり、誰かがそれを「見ている」ときだけ、そこにいるのではないか。
もしそうだとしたら。
今この文章を読んでいる間も、どこかの山道で、あなたの車の前に赤いテールランプが揺れているかもしれない。
そしてその中央線の上を、関節の逆に折れた黒い身体が、口を動かし続けながら歩いている。
あなたが確認するまでは、ただそこにいるだけで。
(了)
【出典と改稿について】比較掲載「全身タイツ」と、鳴子の山道、前を走るトラック、関節の動きがおかしい黒い人影、運転手2人が逃げる筋が共通します。当サイトの改稿として扱い、独立した創作とは表示しません。事故や運行記録などの後日談は比較掲載には見当たらず、現稿の再構成を含みます。元投稿の番号・日時・投稿者と、実在の事故との対応は確認できていません。
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