これは、俺が小学校六年の夏前に体験した、寛二という同級生との出来事だ。
そいつは最初から変わった奴だった。
教室の隅で、授業中はいつも目を閉じて突っ伏し、給食だけは人並みに食べて、終わればただ帰る。話しかけても要領を得ない返事しか返ってこない。俺を含め、クラス全員が「おかしな奴」と思っていた。馬鹿にして笑い、気味悪がって避けていた。
今になって思えば、頭の具合がどこか普通じゃなかったのかもしれない。けれど当時の俺たちに、そんな想像力はなかった。
寛二と初めて大きく関わったのは、小三か小四の頃だった。鬼ごっこを教室でやろうと、数人でルールを決めた。チャイムが鳴ったら終わり。鬼が追いつけず、他の全員が席についたら鬼の負け。
最初に鬼になったのは俺だ。狙いやすそうな奴を見つけてタッチした。それが寛二だった。そいつは追いかけるでもなく、ただトボトボと歩く。鬼になっても同じ。チャイムが鳴っても、慌てず歩いたまま。
皆が笑って急いで席に戻るなか、寛二だけが遅れて入ってきた。しかも泣いているような顔で、俺の席へまっすぐ歩いてきて、いきなり殴りかかってきた。俺を無理やり席から立たせようとしたのだ。担任がちょうど教室に入ってきて、喧嘩にはならなかったけれど、あの瞬間の歪んだ顔は今も忘れられない。
以来、誰も寛二と口を利かなくなった。「半径五メートル以内に近づいたら負け」という遊びが勝手に広まり、彼は完全に孤立した。その頃からだ。授業中に机に突っ伏して眠るようになったのは。
六年の夏前、席替えで俺と寛二が同じ班になった。掃除場所は狭い会議室。教師の目も届かず、誰も真面目に掃除なんてしない。俺はホウキを片手に遊び、他の連中もふざけてばかり。寛二だけが真剣に掃除をしていた。
チャイムが鳴ると皆すぐに教室へ逃げ帰る。俺だけはホウキで遊んでいて、気づけば二人きりになっていた。慌てて掃除箱へ片付けに行こうとした時、寛二が立ちふさがった。
「そこ邪魔だからどけよ」そう声をかけた瞬間だった。
「あの時、タッチされてない」
そう言い残し、猛然と俺から逃げていった。あの時?鬼ごっこ?ふざけているのかと思ったが、以後、寛二はことあるごとに俺から逃げ回るようになった。席に座るとニヤニヤと勝ち誇った顔を見せ、まるで「自分は鬼じゃない」と確信しているようだった。
無視していれば飽きると思ったが、行動はエスカレートした。椅子に座ったままトイレにまで引きずっていき、用を足す。戻ってきては俺を見て笑う。最初は呆れていたが、次第に苛立ちが募った。数年前の「殴りかかってきたこと」を思い出すたびに、やり返さなかった自分が腹立たしくもあった。
やがて俺は妙な考えを思いついた。終業式の日、最後に俺から寛二へタッチして逃げれば、夏休みの間中あいつは「鬼」のままだ。絶望して悔しがる姿を想像すると愉快で仕方なかった。
そして当日を迎えた。寛二の机だけ荷物で山のように膨れ上がっている。俺は手ぶらで靴を履き替え、昇降口の陰に潜んだ。三十分ほどして、パンパンのランドセルを背負い、荷物を引きずる寛二が現れた。靴を脱いだその瞬間、俺は後ろから頭を叩いた。
「タッチー!」
笑いながら全速力で走った。振り返ると、荷物を投げ捨て、靴下のまま追いかけてくる。顔を歪め、声を枯らし、喉を裂くような調子で「殺す!呪う!待て!」と叫ぶ。必死すぎて滑稽にさえ見えた。俺は笑いながら家まで駆け込み、心の底から「せいせいした」と思った。
ところが夕方、家でテレビを見ていると、不意にあの声が聞こえた。「をおぉぅー……」という、人間の喉から出ているとは思えない響き。背筋が凍った。窓の外を覗いたが誰もいない。耳の奥にまだ反響している気がした。嫌な予感がして仕方なかった。
その夜、家に緊急連絡網が回ってきた。寛二が死んだ、と。トラックにはねられたらしい。信号を無視して飛び出し、靴も履かず、喉と足の裏がズタズタだったと後で聞かされた。事故の時刻は、まさに俺があの声を聞いた時間と重なっていた。
もしも、死ぬ直前まで叫びながら俺を探して走り続けていたとしたら……。そう考えるだけで胃の奥が冷える。
だが恐怖はそこで終わらなかった。
その夜も、布団に潜って耳を塞いでいると、再びあの声がしたのだ。「をおぅ……」と、喉を裂いたあの声。今度はもっと近く、耳元に。
思わず飛び起きたが、部屋には誰もいない。ただ、背中に氷のような汗が流れ落ちていた。
その日からだ。俺は「椅子」に座り続けている。座っていれば大丈夫だ、そう思えるから。学校でも、家でも、どこにいても、座らずにはいられない。椅子に座り、机に突っ伏して目を閉じる。まるであの頃の寛二の真似をしているような生活。
他人が急に振り返るだけで、追いかけてくるような錯覚に襲われる。半径五メートル以内に近づけない「遊び」が、今度は俺の番になった。皮肉にも、寛二と同じ姿をなぞるように。
もし今、この椅子から立ち上がったら――。
すぐ後ろに、靴も履かずに喉を裂いた声で、俺を呼び続ける寛二が立っている気がしてならない。
[出典:2007/07/25(水) 18:58:57 ID:ixbWg1mQ0]